武居城
長野県東筑摩郡朝日村西洗馬
立地・構造
 武居城は松本平の南西端、鎖川右岸の丘陵突端(標高871m 比高70m)に築かれた山城です。城は南側の丘陵続きを堀切で遮断して独立させ、規模は東西100m×南北200mほど、城縄張りは頂部に構築された主郭と南側の二の郭、北側稜線の郭群とこれに付随した小郭群からなります。規模は主郭が東西20m×南北40m、二の郭が東西20m×南北20mほどと小規
現地説明板の図(左が北方向)
模なもので、全体的にコンパクトにまとまっています。武居城の特徴は堀を多用して防御ラインを構築している点でしょう。特に南北の稜線を断ち切った堀切は規模の大きいもので、北側稜線はさらに二重堀で遮断されています。また西側斜面には高い切岸で処理された横堀が敷設され、さらに横堀からは畝状竪堀が8条敷設され防御を固めています。主郭・二の郭間は高さ4−5mの切岸で仕切られ、導線は主郭の西⇒北⇒東側を螺旋状に巻かれた帯郭で繋がっています。(横矢を意識した構造と思われます) 武居城は全体的に規模は小さいですが、使用されているパーツは規模が大きく、また切れ味鋭いものが多く、戦国末期頃まで使用されたと思われます。また城内は恒常的な居住空間とは思われず、一時的な避難所あるいは監視砦として利用されたのでしょう。
歴史・沿革
 築城時期は不明。城主三村氏は清和源氏多田頼親を祖とし、「承久の乱」(承久3 1221年)の軍功により信濃国洗馬荘の新補地頭に補任され、鎌倉末期頃 洗馬荘に下向して土着したと伝えられ、武居城は三村氏の入部当初 あるいは南北朝期頃に築かれたと推測されます。三村氏はその後、応永7(1400)年の「大塔合戦」で三村親継・親光兄弟が大文字一揆方に与して参陣しており、南北朝・室町初期には洗馬荘の有力国人に成長していたと思われ、また「応仁の乱」(応仁元 1467年)以降、信濃国守護家の府中小笠原氏と鈴岡小笠原氏が対立し、伊那・府中平の国人衆が対峙した際、三村家親・忠親父子は府中小笠原氏に与し、次第に府中小笠原氏の家臣団に組み込まれました。16世紀初期、三村氏は拠点を芦の田(妙義山城)に移し、天文19(1550)年 武田晴信が信濃府中を制圧すると三村長親は武田氏に出仕しましたが、同24(1555)年1月 長親は甲斐に招かれ府中一蓮寺を宿にした際、晴信に送り込まれた甘利勢により誅殺され、三村氏は没落しました。三村氏没落後の武居城の消息は不明ですが、現在残る遺構等から戦国末期まで使用されたと思われます。
武居城  南側稜線を断ち切った堀切
メモ
洗馬荘の在地勢力
三村氏の要害
形態
山城
別名
洗馬城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・飛礫石?・堀・畝状竪堀
場所
場所はココです
駐車場
南西麓に
武居城公園駐車場あり
訪城日
平成18(2006)年10月12日
武居城は鎖川の南岸、西洗馬地区背後の通称城山に築かれた山城です。(写真左上) 麓との比高差はそれほどありませんが、丘陵突端に築かれているため、目立つ山ではあります。城への登り口は南西麓の武居城公園に設けられ、模擬冠木門から登山道が整備されています。(写真右上) 登山道は急斜面に敷設されていますが、ケッコウ登りやすく(写真左)、しばらく登ると南側稜線を断ち切った大堀切が現れます。(写真左下) 堀切の規模は幅10m・深さ7−8mほど、両斜面は竪堀で処理され、堀を越えて南側稜線を登ると「重ね城」あるいは「天ヶ城」と呼ばれる城砦もあるようです。(行っていません) でっ、ふたたび登山道を登ると、西側斜面に敷設された横堀に辿り着きます。(写真右下)
横堀は幅4−5mほど、主郭側は高さ10mの切岸で仕切られ、西側側面には8条の畝状竪堀が敷設されています。(写真左上・右上) さらに横堀は北西側尾根を断ち切る堀切に変化し(写真右)、さらに北側にはもう1条堀切が敷設され二重堀になっています。(写真左下) 堀切はそれほど規模の大きいものではありませんが、どちらも長大な竪堀をともなっています。(写真右下) ま〜〜〜、しかしコンパクトによくまとまっています。
二の郭(写真左上)
規模は東西20m×南北20mほど、南側縁部には高さ1−1.5mの土塁が築かれ、外側は大堀切で断ち切られています。北側の主郭とは高さ4−5mの切岸で区画され、接続部には浅い堀が確認できます。(写真右上) 二の郭から主郭へは西⇒北⇒東側に螺旋状に敷設された帯郭で繋がっています。(写真左)
主郭(写真左下)
規模は東西20m×南北40mほど、特にめぼしい遺構はありませんが、内部には飛礫石?と思われる河原石の集積地が見られます。(写真右下) 
北側稜線は堀切で断ち切られ、堀切の先には郭もあるようですが、藪がひどく未確認。 武居城のここがスバラシイ!!!
武居城は規模は小さいものの遺構は良好に残存し、コンパクトにまとまっています。特にスバラシイのは図付の説明板が各所に設置されていることでしょう。県指定史跡とはいえ、これだけキッチリ説明板が設けられている城址というのは他に記憶がありません。