八柏城
秋田県横手市(旧大雄村)大雄八柏
立地・構造
 八柏城は横手盆地の中央西部、大戸川の自然堤防上(微高地)に築かれた平城で、菅江真澄の『雪の出羽路』では、「方七、八間もありしも、今は二十間に三十間ばかりとなり、奥山半左衛門住めり」と記されています。現在、城址は宅地化により消滅していますが、城域は推定約140m四方の土塁と濠で囲郭された単郭の方形館だったと推定されています。
歴史・沿革
 築城時期は不明。城主は鎌倉中期 小野寺氏が雄勝郡に入部した時に同道した郎党の落合氏で、小野寺氏が横手盆地に勢力を拡大する過程で八柏を宛がわれ居館として築いたのが八柏城とされます。以後、落合氏は八柏氏を称し代々小野寺氏の重臣を務めました。天文21(1552)年、横手平城主大和田佐渡守光盛と金沢八幡別当金乗坊が小野寺雅道に叛旗を翻し湯沢城を攻めた時に、八柏大和守は湯沢城で討死したと伝えられます。八柏氏は代々大和守を名乗り、道為の代には輝道・義道に仕え、天正14(1586)年の「有屋峠の戦」では最上氏に勝利するなど小野寺氏に貢献しましたが、文禄3(1595)年 最上義光の策略で小野寺義道に謀殺されました。
 戦国期、領国統治のために制定された法律「分国法」が全国各地の戦国大名のもとで創られ運用されていました。有名なのは、伊達氏(伊達稙宗)の「塵芥集」、小田原北条氏(北条早雲)の「早雲寺殿二十一箇条」、駿河今川氏(今川氏親)の「今川仮名目録」、甲斐武田氏(武田信玄)の「甲州法度次第」、越前朝倉氏(朝倉孝景)の「朝倉孝景条々」などで、鎌倉幕府の「御成敗式目」や室町幕府の「建武式目」の影響を受けたと考えられています。内容的には武家としての範を律することや、土地に関する訴訟の裁定基準を設けたもの、あるいは日常生活の心得を示したものなど多岐にわたっていたようです。『奥羽永慶軍記』によると八柏氏も「分国法」に似た法度を制定していたとされます。八柏氏の法度は大和守道為が制定した「八柏大和守掟条々」と呼ばれるもので、武士としての心得を律したものだったようです。一部を紹介すると・・・・・・・・、「いくさば」では大将の命令に背いてはいけない。 他人の討ち取った首を奪えば死罪。 他国から逃亡したものを召抱えてはいけない。 敵方の使者をむやみに斬ってはならない。 収穫前の敵方の稲を刈り取ってはならない。 味方の陣地を救出せず、自分勝手に「いくさ」をしてはならない。 味方の不利を見棄てて逃げるものは死罪。 喧嘩は親類朋友であっても関与してはならない、また両者臆病のため討ち果たさぬときは双方死罪。等々が記載されています。内容的には武士としての心得を律した軍法度ですが、この内容が小野寺氏全体に対して運用されたのか、八柏氏が自身の行動を律するために制定したかは不明です。どの項目ももっともな内容で、昔も今と変わらず、コンプライアンスを持たない輩が多かったのでしょう。ところで八柏氏ですが、この家系は鎌倉期に雄勝郡に入部した小野寺氏に追随してきた落合氏を祖としています。いわば郎党だったと考えられます。八柏氏は小野寺氏が横手盆地に勢力を拡大する過程で八柏を領有し八柏氏を称し、代々大和守を名乗りました。最後の大和守が道為で「八柏大和守掟条々」を制定した人物です。この道為の時代に小野寺氏は北進政策を進める山形城主最上氏と直接対峙していましたが、天正14(1586)年の「有屋峠の戦」では小野寺氏は最上氏を打ちやぶるなど最上氏に隙を与えませんでした。天正18(1590)年の「奥州仕置」で雄勝郡は最上義光領になりましたが、小野寺義道は最上氏の雄勝郡領有を認めず軍事衝突を繰り広げ、最上氏の雄勝侵入を阻止しました。最上義光は大和守道為が雄勝侵入を拒んでいる元凶と考え、道為を排除する行動にでます。義光は道為が最上氏に内応したとする偽書を小野寺陳道(義道の弟)の吉田城にわざともたらします。この偽書はすぐに横手城の義道に届けられ、義道は横手城に登城した道為を暗殺しました。ときに文禄3(1595)年の正月と伝えられます。道為がいなくなった小野寺氏は次第に衰退し、慶長5(1600)年の「関が原の戦」では最上氏との確執から西軍に味方し戦後、改易になりました。
八柏城  館祉に祀られる八幡神社
メモ
小野寺氏被官八柏氏の居館
形態
平城(方形館?)
別名
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遺構
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場所
場所はココです
駐車場
八幡神社脇
訪城日 平成16(2004)年11月6日
平成19(2007)年7月11日
八柏城は現在の八柏地区に包括され遺構は消滅しています。推定では140m四方の巨大な方形館と推測されていますが、この規模だと たぶん・・・・・・・・・・、仙北・平鹿地区の平城の中では規模の大きい城館の部類に入るでしょう。現在、八幡神社のあるあたりが城内の西側北寄りに位置し(写真左上)、東縁は宅地と水田の境目と思われます。(写真右上)