明 知 城
岐阜県恵那市(旧明智町)明智町明智
立地・構造
 明知城は明智川の左岸、東から西側に張り出した丘陵先端(標高520m 比高80m)に築かれた山城で、丘陵基部を堀切で分断し城域を区画しています。城の規模は東西300m×南北250mほど、城縄張りは頂部ピークに構築された主郭を中心に北・西・南側に展開されています。主郭の規模は東西40m×南北20mほど、主郭の西ー南ー東側
現地説明板の図
をカバーするように二の郭・三の郭が敷設され、さらに南側に張り出した稜線は南出丸に加工されています。そしてこれらの城中枢部を巻くように周辺の斜面には横堀が穿たれ、連続する端部は堀切で処理され要害性を高めています。大手筋は西麓からのルートが想定され、導線は北西側稜線の段郭群の側面を通るように設定され、横矢が掛かる堅固な導線構造になっています。なお西麓には近世明知陣屋が構えられています。全体的に切岸と堀切を防御主体とした古い形態の城館ですが、何度もクランクさせる巧みな導線構造や、主郭周辺に敷設された有機的な横堀・竪堀など見どころの多い城館です。

 明知城は宝治元(1247)年、美濃国恵那郷の地頭職に任じられた加藤次景廉が孫の三郎兵衛景重に明知周辺を分知し、景重により築かれたと伝えられます。そして明知遠山氏は嫡流の岩村遠山氏とともに恵那郡に勢力を拡大しましたが、南北朝以降 美濃国守護職となった土岐氏の被官に組み込まれました。戦国期の東美濃は信濃・三河に国境を接するため武田・織田の争奪の場となり、明知城主遠山景行は織田信長と結んで武田氏と対峙しましたが、元亀3(1572)年 武田信玄が上洛の途につくと、伊那では高遠城主秋山信友が東美濃侵攻を開始しました。そして同年11月、「上村の戦」で遠山連合軍は秋山信友の武田勢に敗れ、景行は自害して明知城は武田勢に攻略され陥落しました。しかし信玄の死去により武田勢は甲斐への退却を余儀なくされました。天正2(1574)年、勢力の拡大を目指す武田勝頼は東美濃に侵攻してふたたび明知城を攻略しましたが、翌4(1575)年の「長篠の戦」で武田勢は織田・徳川連合軍に大敗を喫します。この際、東美濃では織田信忠が率いる織田勢が武田氏が占拠する諸城を次々に攻略、明知城も織田方に奪還され、明知城は遠山一行(景行の嫡孫)・利景(景行の次男)に返還されました。しかし同10(1582)年に勃発した「本能寺の変」後、遠山一行・利景は徳川家康の配下に加担し、このため羽柴秀吉方に与した兼山城主森長可の圧迫を受けて明知城から徳川領足助に落ち延びました。同12(1584)年、「小牧・長久手の戦」で遠山勢は菅沼定利勢に与し、明知城の奪回に成功しましたが、羽柴・徳川の和睦により明知城の返却を与儀なくされました。 慶長5(1600)年の「関が原の戦」で利景は妻木城主妻木頼忠等とともに東軍に加担し、西軍の岩村城を攻略、明知城の奪還に成功し、戦後 恵那・土岐郡内で6500石の所領を宛がわれました。以後、明知遠山氏は徳川家の旗本として残りましたが、元和元(1615)年の「一国一城令」により明知城は破却され、西麓に明知陣屋が構えられました。
歴史・沿革
明知城 南出丸の虎口
メモ
「遠山七頭」
明知遠山氏の要害
形態
山城
別名
白鷹城 
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀・水の手
場所
場所はココです
駐車場
龍護寺周辺に路上駐車 OR
搦手口に駐車場あり
訪城日
平成18(2006)年6月2日
明知城は明智市街地背後の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上) 城へは東側の搦手口まで車道が敷設されていますが、管理人は北西側の登り口から登りました。(写真右上 案内杭あり) 山道は途中から大手城道に合流し、その後 大手筋を守備する段郭群の側面を通ります。(写真左) でっ、その後 導線は三の郭から西側に張り出した小尾根(郭群)と谷状の堀により区画され(写真左下)、三の郭に繋がっています。三の郭の下部には小郭が2段敷設され、最大5−6mの切岸で区画されています。(写真右下)
三の郭(写真左上)
主郭の西から南側をカバーした郭で、規模は幅10−15mほど。ここから導線は三の郭⇒二の郭⇒主郭と、主郭の西⇒南⇒東側に廻り込み二の郭から主郭の東虎口に繋がっていたと思われます。
二の郭(写真右上)
主郭の東側に位置し、規模は東西40m×南北25mほど。主郭へは虎口郭を通り繋がっています。(写真右)
主郭(写真下)
規模は東西40m×南北20mほど、思ったより広い平場になっています。
二の郭から南出丸へは痩せ尾根の導線で結ばれ(写真左上)、南出丸側の虎口は石積で固められていたようです。(写真右上)
南出丸(写真左)
規模は東西30m×南北40mほど、周囲は「猿戻し」と呼ばれる急峻な切岸で処理されています。(写真左下) 比較的独立性の高い郭になっており、有事の際の非戦闘員の逃げ込み郭と思われます。
東郭(写真右下)
二の郭の北側下に位置し、自然地形の切岸で区画されています。規模は東西30m×南北20mほど、内部には水の手と思われる巨大な池があります。(写真右下)
明知城の搦手は東側に設けられ、導線には搦手砦(監視用番所か?)が構築され(写真左上)、外側は堀切で遮断されています。(写真右上) さらに進むと明確な木戸が設けられています。(写真右) 訪城の際、こちらからアプローチすると主郭へは早く辿り着けます。
龍護寺(写真左下)
城山の北西麓にある妙心寺派の古刹。創建は大永元(1521)年、慶長元(1596)年 遠山利景が再興し、遠山家代々の菩提寺としました。境内には明智光秀の供養塔が弔なわれています。(写真右下)
明智陣屋
元和元(1615)年、明知城が破却後に領内支配のために築かれた陣屋で、遠山家の代官が代々行政を執り行ったとされます。現在は西側の濠が残存しています。