下村館
秋田県由利本荘市(旧東由利町)東由利蔵字岩館
立地・構造
 下村館は高瀬川(石沢川)の中流域、左岸の東から西方向に張り出した低丘陵先端(比高10−15m)に築かれた単郭の平山城です。城の規模は東西180m×南北130mほど、北ー西ー南側は段丘崖で画し、東側の丘陵続きは幅10m・深さ3mの堀で仕切られ、土橋で外部と繋がっています。また堀に面して本郭側には土塁が築かれていたと思われますが、現在は痕跡が残るのみ。基本的には村落領主の日常居館と思われます。現在、内部は一部 開墾され、中央に諏訪神社が祀られています。

 築城時期は不明。『由利十二頭記』『下村古来物語り之事』によると応仁年間(1467

下村館概念図
−69年年)、信濃からこの地に入部した小笠原氏の一族(下村氏)が居館として築いたとされます。(『由利十二頭記』は軍記物のため信憑性に問題がありますが・・・・・・・・・) 下村氏の詳細な事績は不明。『由利十二頭記』によると元亀3(1572)年、石沢館主石沢作左衛門の侵入を受けて大琴で戦い、また天正10(1582)年 庄内尾浦城主武藤義氏が由利に侵攻した際 下村氏は根城館で庄内勢を撃退したとされます。同18(1590)年、下村彦次郎は「奥州仕置」により175石の知行を安堵され、他の由利衆とともに豊臣政権下に組み込まれました。『奥羽永慶軍記』によると慶長3(1598)年、下村氏(彦次郎の嫡子彦三郎か?)は大谷義継の検地に反抗したため、同じく由利十二頭の赤尾津氏・潟保館主潟保氏・山崎館主鮎川氏の攻撃を受けて、玉米館主玉米氏とともに滅ぼされたとされますが、文禄3(1594)年の「朝鮮出兵」、同5(1596)年の伏見城築城の杉材の負担に下村氏の名はなく、文禄年間(1592−95年)頃には没落していたものと推測されます。(豊臣政権下での由利十二頭再編)
歴史・沿革
下村館 主郭の東虎口
メモ
由利十二頭 下村氏の館城
形態
平山城
別名
岩舘
遺構
郭(平場)・虎口・堀・土橋
場所
場所はココです
駐車場
東側の入口近くに
専用の駐車場あり
訪城日
平成18(2006)年 4月19日
平成20(2008)年11月30日
平成28(2016)年 6月30日
下村館は大きく蛇行して西流する高瀬川(石沢川)の左岸、東から西方向に張り出した低丘陵突端に築かれた平山城で、東側は人為的な堀で、北ー西ー南側は比高10−15mの段丘崖で区画されています。(写真左上ー南西側からの遠景 写真右上ー北側の段丘崖 写真左ー南側の塁線) 往時、段丘崖下は高瀬川の氾濫原と想定され、自然地形を要害に取り立てて築かれたものと思われます。でっ、館へは東側の車道脇に「岩舘のイチョウ」の誘導杭が設置され(写真左下)、ここから道なりに西進すると下村館の東虎口に辿り着きます。(写真右下)
 
館の東側を仕切った堀は幅10m・深さ3mほど、長さ100mにわたって穿たれ丘陵基部と分断されています。(写真左上・右上) でっ、北側の端は堀留により水濠になっていますが、往時は空堀だったのでしょう。(写真右) 堀には中央部に土橋が架けられ虎口に繋がっています。(写真左下)
本郭(写真右下)
規模は東西180m×南北130mほど。広々とした単郭構造になっていて、中央部には周囲を土塁?で囲まれた諏訪神社が祀られています。諏訪神社は下村氏が勧請したと伝えられ、土塁は神社創建時のものなのでしょう。
(写真左上) 諏訪神社
(写真右上) 周囲の土塁?、高さ1m前後
(写真左) 岩楯のいちょう
(写真右下) 下村蔵人奥長の墓碑
奥長は豊臣政権から所領安堵を受けた「下村彦次郎」に比定される人物。墓碑には「文禄二癸巳五月三日 小笠原氏」(没日か?)と刻印されています。墓碑は蔵地区の蔵立寺にあります。
薬師館(写真右)
下村館から南東1kmに位置する下村館の支城。玉米方向に対する前衛陣地か?。未訪城のため規模・構造は不明。