玉米館
秋田県由利本荘市(旧東由利町)東由利館合字館野
立地・構造
 玉米館は出羽丘陵の中央部、玉米盆地南部の自然堤防上(比高20m)に築かれた単郭の丘城です。館の規模は東西160m×南北150mほど、東ー北ー西側は段丘崖で、南側は高瀬川に面した断崖で画された要害地形に位置します。現在、内部は大物忌神社の境内・八塩小学校の校地となり遺構は消滅していますが、東ー北ー西側の段丘崖は良好な状態で残存しています。

 築城時期は不明。『玉米中古来書』『由利十二頭記』等によると、応仁年間(1467−69) 信濃国から入部した玉米(小笠原)式部少輔の居館と伝わります。また『打越旧記』では応永末年(1428年)の地頭として「玉米在 小笠原式部光安」と伝えており、15世紀初期頃には玉米氏が入部して玉米館に拠していたと推測されます。室町期の玉米氏の詳細な
事績は不明。天文年間(1532−53)末期、玉米信濃守義満には嗣子がなかったため、小野寺氏の被官山田五郎の子小介を養子に迎えて須郷田館に隠居しました。しかし義満に嫡子弥三郎が生まれたため義満と小介は不和となり、小介は山田へ逃避しました。このため西馬音内・山田勢は軍を起こして義満の籠る須郷田館を攻撃し、義満を自害に追い込み、弥三郎義次を捕縛しました。永禄6(1563)年、義満の弟山城守光重・伊予守茂光は由利十二頭滝沢氏・石沢氏の協力を得て山田から義次の奪還に成功し、養田館に籠り山田勢と対峙しました。しかし山田勢の攻撃を玉米勢が凌ぎ戦陣が長期化したため、小野寺氏は玉米氏に和睦を持ちかけて同盟関係を結んだとされます。また『由利十二頭記』では元亀元(1570)年、矢島根城館主大井満安に攻められた弥三郎義次が水上館に立て籠もったとする記載があり、その後 山根館主仁賀保氏と大井氏が対立した際には仁賀保氏に与しています。天正18(1590)年の「奥州仕置」『仙北之内上浦郡指出目録』では横手城主小野寺遠江守義道の家臣八名の宛名の中に「玉米平三郎」(弥三郎義次の嫡子半三郎か?)の名が見え、玉米本領の他に小野寺領の一部も宛がわれていたと推測されます。『奥羽永慶軍記』によると慶長3(1598)年、玉米式部は大谷吉継の検地に反抗したため、天鷺城主赤尾津氏・潟保館主潟保氏・山崎館主鮎川氏に攻められ、下村館主下村彦次郎とともに滅ぼされたとされますが、文禄3(1594)年の「朝鮮出兵」、同5(1596)年の伏見城築城の杉材の負担には玉米氏の名はなく、文禄年間頃(1592−95年)には没落していたと推測されます。(豊臣政権の由利十二頭再編)
歴史・沿革
玉米館 本郭に祀られる大物忌神社
メモ
由利十二頭 玉米氏の館城
形態
丘城
別名
米本館 
遺構
郭(平場)
場所
場所はココです
駐車場
農村公園駐車場あり
(大物忌神社境内)
訪城日
平成18(2006)年 4月19日
平成20(2008)年11月30日
平成28(2016)年 6月30日
 
玉米館は館合市街地の西側、高瀬川が蛇行して流れる小盆地の自然堤防上に築かれた丘城です。(写真左上ー北西側からの遠景) でっ、館の東ー北ー西側は高さ6−7mの段丘崖で、南側は高瀬川に面した高さ15−20mの断崖で区画されています。この段丘は先細り状に南側に延び、堀切橋が架けられたあたりで丘陵基部と分断されていたようです。(写真右上ー北側の切岸 写真左ー西側の切岸 写真左下ー南側の断崖 写真右下ー東側の切岸) また館の西側には「西館」と称する地名が残っていて、ここには外郭が構えられ、家臣の屋敷地だったのでしょう。
本郭(写真左上・右上)
規模は東西160m×南北150mほど、現在は南側が大物忌神社社地、北側が八塩小学校(2011年廃校)の校地となっていて遺構は消滅しています。
玉米氏墓碑(写真右)
墓碑には「玉米院殿梅岸高公大居士 元和元年三月五日 俗名小笠原式部少輔光圀」と刻まれていて、玉米弥三郎義次と推測されています。ます。老方の泉秀寺に安置されています。(写真左下)