養田館
秋田県由利本荘市(旧東由利町)東由利老方
立地・構造
 養田館は祝沢川右岸、南側に張り出した低丘陵の小ピーク(比高80m)に築かれた山城で、東・西側は沢が切り込んだ急峻な断崖になっています。養田館の東・西側にも養田館同様に南側に張り出した小丘陵があり、この小丘陵が養田館をカバーする城塁となっています。小ピークに位置する主郭は20−25m四方ほどの規模で、北端には高さ1mの土壇(櫓台?)が築かれいます。主郭の南側は高さ3−5mの段差で6−7段の段郭群で処理され、下段の二の郭(東西20m前後×南北50−60mほど)に繋がっています。城の縄張りは主郭から二の郭までのシンプルな階段状の郭配置で、主郭の北側、二の郭の南側は堀が穿たれ城域を区画しています。大手筋が想定される二の郭南側の堀は幅15m前後、城側(二の郭)の切岸は高さ10mを確保した巨大な壁で、主郭北側の堀は幅15−20m・深さ4−8mの二重堀で処理されています。城の規模は小さいものの、自然地形を巧みに利用した要害で、基本的には「詰の城」として機能したと推測されます。
歴史・沿革
 天文年間(1532−53)末期、玉米館主玉米信濃守義満は嗣子がなかったため、小野寺氏の被官山田五郎の子小介を養子に迎え須郷田館に隠居しました。しかし義満に嫡子弥三郎が生まれたため義満と小介は不和となり、小介は山田上の宿館へ逃避しました。このため軍を起こした西馬音内・山田勢は義満の籠る須郷田館を攻撃し、義満を自害に追い込み、弥三郎義次を捕縛します。永禄6(1563)年、義満の弟山城守光重・伊予守茂光は由利十二頭滝沢氏・石沢氏の協力を得て山田から義次の奪還に成功し、養田館に籠り山田勢と対峙したとされ、養田館は永禄6(1563)年までに玉米氏により築かれたと推測されます。文禄年間(1592−95年)、玉米氏の没落で廃城か。
養田館 主郭背後の堀切
メモ
由利十二頭 玉米氏の要害
形態
山城
別名
 ・・・・・・
遺構
郭・櫓台?・堀切・畝状竪堀
場所
場所はココです
寺田地区東側の丘陵
駐車場
路上駐車
訪城日
平成20(2008)年11月30日
養田館は祝沢川右岸、南側に張り出した低丘陵に築かれた山城で、東・西側には沢が切り込み急峻な断崖になっています。写真右は南西側から養田館を見たところで、養田館の東・西側には養田館と同様に南側に小丘陵が張り出し、この小丘陵が養田館をカバーする城塁となっています。
養田館へは南西麓の城址標柱から尾根に登り、尾根筋に北上します。尾根筋は幅2−3mほどの痩尾根で左右は高さ30m前後の断崖になっていますが、雑木が多いものの歩き易い道です。
南側からの近景 城址標柱・登り口 尾根道
堀切
尾根筋には3条の堀切が穿たれていますが、どれも幅2−3m・深さ1−2mほどの小規模なものです。
尾根筋を進み尾根幅が急激に広がる部分には巨大な堀切(写真左下)が穿たれ、このあたりから本格的に城域となります。堀の規模は幅15m前後、城側(二の郭)の切岸は高さ10mの巨大な壁(写真右下)になっています。
堀切から二の郭へは西側側面に導線が敷設されています。この導線は上に進むにつれ堀底道に変化し、上位の郭から攻撃できるように設定されています。 二の郭
規模は東西20m前後×南北50−60mほど。低い段差で南北2段に削平されています。
段郭群
二の郭から主郭までは高さ3−5mの段差で6−7段の段郭群で処理されています。郭の規模は幅5−10mと一定ではありませんが、尾根幅一杯に普請され、まとまった平場になっています。
主郭
規模は20−25m四方ほど。北端には高さ1mの土壇(櫓台?)が築かれ小笠原神社と刻まれた石碑が祀られています。小野寺軍と対峙した弥三郎義次が籠もったのはここなのでしょう。
二重堀
主郭背後は二重堀で丘陵部と分断されています。由利郡の中世城館で連続堀が穿たれている類例は中直根根井館赤館等でも見られますが、残存状況はここがもっとも良好です。(写真はイマイチですが・・・・・) 主郭側の切岸(写真右下)は高さ7−8mを確保し、中間にも竪堀をともなった小規模な堀が穿たれています。搦手側(北側 写真左下)は4−5mの切岸を確保し、中間の畝は2m前後とほぼ完存です。
畝状竪堀
な〜んと主郭の西側に畝状竪堀発見!! 畝の規模は1・5−2mほどと小規模なもので、相当消耗していますが6条確認できました。この西側斜面は急斜面になっていて、竪堀は必要ないように思えるのですが・・・・・。畝状竪堀自体は永禄6年の小野寺軍との対峙後、玉米氏は小野寺氏と和睦して親小野寺となり、天正年間に構築したものと推測されます。