浅 舞 城
秋田県横手市(旧平鹿町)平鹿町浅舞
立地・構造
 浅舞城は横手盆地中央の平野部に築かれた平城です。城の規模は東西120m×南北130mほど、『浅舞切絵図』によると周囲を幅4−6mの濠で囲った単郭の方形館と推測されます。同地は皆瀬川扇状地の末端に位置する伏流水の湧水地でこの湧水を濠に引水していたと思われます。現在、城址は耕作地に改変され遺構の大部分は消滅していますが、周囲の水田面より0.5−1mほど高くなっています。また南東側には家老寺館氏の屋敷があったと伝えられる宿立(宿館か?)があり、家臣の屋敷地が城に隣接されていたと推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。『戸沢家譜』の戸沢家盛の条には応安三庚戌年八月二十五日 平鹿郡浅舞刑部少輔秀政籠城、行盛攻動之城主励士卒強防之、
寄手及死傷甚多、行盛下知諸軍、・・・・・・・・・ 行盛近士小館彦九郎云者、討取浅舞、行盛切取城・・・・・・・・」と記され、もともと村落領主と思われる浅舞氏が拠した居館とも。(『戸沢家譜』の信憑性に問題はありますが・・・・・・・・・) また天文21(1552)年に勃発した「天文小野寺の乱」では横手(大和田)佐渡・金沢八幡別当金乗坊方に加担した領主のなかに「浅舞内蔵之助」の名が見られます。その後、天正年間(1573−92年)中期頃 横手城主小野寺輝道の庶長子(?)左京亮光道(友光)が浅舞城に居住したとされ、光道は天正14(1586)年の「有屋峠の戦」では出陣した小野寺義道の留守を守り、仙北北口を守備したと伝えられます。同18(1590)年、太閤検地に反対する一揆が勃発し「・・・・・・・・ 国中地下人悉蜂起シテ在々放火す、在地検地之衆取籠討んとす、安田上総も在郷へ被遣候に、一揆にとり籠られ難儀に及間、浅舞と云古城籠・・・・・・・・・」『景勝公御一代略記』)したため光道は一揆の責任をとり自害したと伝えられます。一揆鎮圧後、浅舞領は太閤蔵入地となり菅蔵人が代官として浅舞城に置かれ、慶長7(1602)年 秋田に入封した佐竹氏がこれを接収して元和8(1622)年の「一国一城令」により廃城。なお天正14(1586)年の「有屋峠の戦」には浅舞刑部なる人物が参陣していますが光道との関連は不明。
歴史・沿革
浅舞城 宿立に建つ「城址標柱」
メモ
小野寺輝道の庶子
光道の居館
形態
平城
別名
・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・堀(濠)祉
場所
場所はココです
駐車場
龍泉寺の駐車場借用 OR
白山神社の駐車場借用
訪城日
平成20(2008)年4月20日
浅舞城は浅舞市街地北西部の微高地に築かれた平城で(写真左上)、現在は某病院の敷地、耕作地になっています。規模は推定東西120m×南北130mほど、ま〜〜〜 全体として圃場整備がなされているため塁線が往時のものか明確ではありませんが、城址自体は周辺の水田面より1m弱ほど高くなっていて、往時の塁線に近いものなのでしょう。(写真右上ー北側の塁線 写真左ー西側の塁線 写真左下ー南側の塁線) また南西端は入角状になっていて鬼門除け?、東側を流れる用水路は往時の濠だったのでしょう。(写真右下)
宿立(写真左上)
浅舞城の東側に隣接された区域で副郭に相当する平場。内部には家臣・給人の屋敷地が設けられていたとされます。
 
龍泉寺(写真右上)
小野寺友光が開基したと伝えられ、境内には小野寺友光の墓碑が建てられています。(写真右) 墓碑の刻字は「天正十八年庚寅歳 当寺開基即山清心大居士 神儀 九月二十九日」