尾崎城
青森県平川市尾崎
立地・構造
 尾崎城は津軽平野の南東端、背後に丘陵地が迫った尾崎川北岸の微高地(比高10m前後)に築かれた平城です。城の規模は推定東西700m×南北250mほど(か?)、城縄張りは東西に郭を連ねた連郭式縄張りで構築され、東から大館(主郭)・二の郭・勘助出丸・木戸口出丸が設けられいました。規模は主郭が東西1
尾崎城概念図
30m×南北90m、二の郭が推定東西200m×南北120mほど、勘助出丸・木戸口出丸は規模不明。周囲は堀で囲まれ、各郭も堀で遮断されていたと推測されます。全体的に規模は大きく、津軽平野に点在する多館式城郭の一類例と思われ、基本的には築城当初 在地領主の日常居館として築かれた単郭の城館を、後世 拡張・整備して根小屋を含む館城に改修したものと推測されます。現在、城址は宅地化・開墾等により相当改変され不明瞭になっている場所もありますが、主郭周辺の堀や切岸は比較的良好に遺構が残存しています。
歴史・沿革
 築城時期・築城主体ともに不明。暦応二(1339)年の『曽我貞光申状』「尾崎合戦の時、分取五人仕候了」との記載があり、この頃までに尾崎城は存在し、曽我貞光支配下の属城だったと推測されます。その後、尾崎城は室町期には浪岡城主北畠氏の属城として尾崎氏が在城し、また戦国期には三戸南部氏配下の大光寺城主大光寺氏に支配下にあったと推測されます。天正3(1575)年、大光寺城が大浦(津軽)為信に攻められ落城すると、尾崎喜蔵は新屋城主新屋源次郎とともに大浦(津軽)氏に降伏して所領を安堵されました。慶長5(1600)年、「関が原の戦」に津軽為信が出陣すると留守居を命じられた尾崎喜蔵は板垣将兼・多田玄蕃とともに堀越城を武力占拠して謀反を起こしましたが、今信則に討たれました。その後、尾崎氏の一族は尾崎城に立て籠りましたが、津軽勢に鎮圧され、ほどなく尾崎城は廃城になったと思われます。
尾崎城  主郭北側の堀
メモ
在地領主 尾崎氏の館城
形態
平城
別名
尾崎大館 
遺構
郭(平場)・堀
場所
場所はココです
駐車場
尾崎公民館の駐車場借用
訪城日
平成19(2007)年6月21日
尾崎城は現在、宅地化により大部分の遺構は消滅し、尾崎集落に包括されています。このうち比較的遺構が明瞭なのが大館と呼ばれる主郭部分ですが、ここは一般の宅地・私有地になっているため入ることはできず、東端の城址碑を眺めるのみです。(写真左上) 内部の規模は東西130m×南北90mほど、主郭の周囲に巡らされた堀と切岸はケッコウキッチリ残っています。(写真右上ー南側の堀 写真左ー東側の堀 写真左下ー北側の堀 写真右下ー西側の堀) 堀の規模は最大幅20mほど、切岸は高さ5−6m確保されています。
二の郭(写真左上)
主郭の西側に位置し、規模は推定東西200m×南北120mほど(か?)。現在、内部は宅地化で構造等は不明瞭になっていますが、北側には微かな段差が見られ、外側には堀があったと思われます。(写真右上)
城域の西端には木戸口出丸(写真右)、勘助出丸(写真左下)と呼ばれる外郭が設けられていました。現在、両郭ともにリンゴ園に改変され、規模・構造ともに不明瞭になっていますが、両郭の間には堀祉と思われる用水路が設けられています。(写真右下) 基本的には津軽平野側からの攻撃に備えた郭なのでしょう。