田舎館城
青森県南津軽郡田舎館村田舎館
立地・構造
 田舎館城は津軽平野の中央部、浅瀬石川南岸の微高地(比高5−6m前後)に築かれた平城です。城の規模は東西500m×南北400mほど、内部は濠で仕切られた本郭・北郭・南郭・新館(南郭の西側にあったようですが、遺構は消滅しているようです)の4郭からなります。郭の規模は本郭が東西280m×南北250m、北郭が東西250m×南北150m、南郭が東西300m×南北150mほど、各郭を仕切った濠の規模
田舎館城概念図
は幅10−15mと推測され、一部 残存しています。城は浅瀬石川の氾濫原を利用して築かれたと推測され、平城とはいえ最低限の要害を用いていたと思われます。現在、城址は宅地化により城郭遺構は消滅していますが、本郭の北端に土塁の痕跡と思われる「ヤマコ」が残り、また縁部には明確な段差が見られます。津軽平野には規模の大きい平城が相当数存在していますが、田舎館城はその中でも規模の大きなもので、内部に領民・町屋を包括した変則的な惣構の城館だったと思われます。
歴史・沿革
 築城時期・築城主体ともに不明。建武四年七月の『曽我太郎貞光謹目安言上』(1337年)には 「一、去年六月二十一日 田舎楯合戦之時、若党矢木弥次郎光泰仕分捕候了、同矢木太郎光俊右肩被射通候了。一、今正月二十四日 又田舎楯合戦之時、若党紀佐市弥次郎盛国右足平被射通候了」と記され、この頃には田舎楯が存在していたと思われます。注進状を記した曽我貞光は平賀郡の地頭職曽我道性の一族とされ、建武元(1334)年に津軽の北条氏残党を攻撃した大光寺楯攻めで軍功をあげ、さらに足利尊氏が建武政権に叛くと北朝方に与して津軽の南朝勢力と対峙したと伝えられます。『曽我太郎貞光謹目安言上』は貞光が尊氏に近況報告した書状と推測され、この頃 田舎楯には南朝方の工藤中務右衛門(あるいは安保弥五郎入道)が在城し、曽我貞光領だった「沼楯の郷」(平賀郡)を北畠顕家から拝領したことで北朝方の曽我氏と対立し「田舎楯合戦」に発展したと推測されます。その後 文明7(1475)年、津軽平野を統治下に置いた南部氏の代官浅瀬石城主千徳政久は次男貞武(政実)を田舎館城に分知し、『黒石市浅瀬石星田文書』には「七百五十町歩を分与し、家臣重臣十数名、雑兵五百十人を従わせて分家」と記されています。その後、田舎館城は千徳氏の支城として南部氏の津軽支配の拠点として機能しましたが、天正13(1585)年 津軽統一をめざす大浦城主大浦(津軽)為信の攻撃を受けて千徳政武は自害し田舎館城は落城しました。
田舎館城  本郭の北端(「ヤマコ」)に建つ城址碑
メモ
浅瀬石千徳氏の庶流
田舎館千徳氏の館城
形態
平城
別名
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遺構
郭(平場)・土塁痕・濠祉
場所
場所はココです
駐車場
田舎館村役場駐車場借用
OR 路上駐車
訪城日
平成19(2007)年6月21日
平成23(2011)年4月15日
田舎館城は広大な津軽平野の中央部に築かれた平城で、現在は田舎館市街地に包括され、外部は水田として利用されています。(市街地部分は微高地になっています。津軽の平城は微高地に築かれた類例が多く、そのほとんどは市街地・宅地になっています。) でっ、最初に訪れたのが田舎館村役場です。(写真左) 実は役場の最上階は天守閣風の望楼になっていて、ここからは田舎館城が一望にできます。(写真左下) また6−9月までは「田んぼアート」を鑑賞することができます。(写真右下)
本郭(写真左上)
規模は東西280m×南北250mほど、水田面との比高差は5−6mほど、内部は大部分が宅地・一部墓地になっています。本郭内で唯一 残る遺構は北端に築かれたと思われる土塁(土居・櫓台?)で「ヤマコ」(盛コ)と呼ばれています。(写真右上) 本郭の西端には生魂神社が祀られています。(写真右) 田舎館城の各郭は幅10−20m・深さ3−4mの濠で仕切られていたようです。 (写真左下)本郭・北郭間の濠祉、家が2軒入るほど規模が大きいです。  (写真右下)本郭・南郭間の濠祉、用水路に改変されています。
北郭
規模は東西250m×南北150mほど、内部は宅地化により遺構は消滅しています。
南郭
規模は東西300m×南北150mほど、内部は北側が宅地、南側が耕作地になっています。遺構は残っておらず、縁部にかすかな段差が確認できるのみ。