近世亀田城下
秋田県由利本荘市(旧岩城町)岩城亀田
歴史・概要
 元和8(1622)年、山形藩主最上家が「最上騒動」により改易されると、由利郡亀田には信濃国川中島から岩城修理大夫吉隆(後の佐竹義隆)が入封し、亀田藩を立藩しました。岩城家は常陸平氏を祖とする陸奥国南部の有力大名でしたが、戦国末期 隣国常陸の佐竹家と婚姻関係を結び、佐竹家に従属を余儀なくされました。このため慶長5(1600)年、「関ヶ原の戦」が勃発すると吉隆の父貞隆(佐竹義重の三男)は兄佐竹義宣とともに日和見を決め込み、このため戦後 岩城氏は改易となります。し
かし慶長19−20(1614−15)年の「大坂の陣」の軍功により貞隆は信濃国川中島に新たに領地を宛がわれ、元和9(1623)年 吉隆が亀田に加増移封されました。亀田に入封した吉隆はかつて本城(楯岡)満茂が居城としていた高城山の北麓台地上に陣屋を設定し、城下の町割り・建設に執りかかりました。(実務は当初、佐竹藩が執り行いました) 陣屋は高城山に接した山麓台地に構築され、規模は東西180m×南北90mほど、内部には藩主居館・藩政庁が置かれていたようです。また陣屋の西ー北ー東側をカバーするように外郭が構えられ、重臣の屋敷地になっていました。城下は東西に走る基幹街道を中心に碁盤目状に町割りがなされ、東西道路沿いには町屋が配されていました。城下に入る要地には西に六呂田御番所が、北東に富田口御番所が、東に新道口御番所が置かれ、各御番所の周囲には「クミヤシキ」(中間・足軽屋敷か?)が集中的に配置されていました。また最も重要な木戸口と思われる西の木戸の周囲には西園寺・妙慶寺・神宮寺・長照寺・養福院が配され、有事の際の砦を想定したものと思われます。現在、亀田陣屋祉は亀田小学校の校地に利用され往時の遺構等は見られませんが、城下の町割りの大部分は往時のものをトレースしたものと思われます。
(写真左上) 西の木戸祉、「折れ」ています
 
(写真右上) 富田口御番所祉周辺
 
(写真左) 新道口御番所あたり
 
(写真左下) 東西道路の大工町界隈
 
(写真右下) 東西道路の大町界隈 
 
(写真左上) 東西道路・大町の「折れ」
 
(写真右上) 大手門祉
 
(写真右) 東西道路・新町の「折れ」
 
(写真左下) 東西道路・今町界隈
 
(写真右下) 衣川
 
(写真左上) 外郭西門祉(桝形門)
 
(写真右上) 外郭東出溜(東門)祉(桝形門)
 
(写真左) 藩校長善館祉
 
(写真左下) 外郭大手門祉(桝形門)
 
(写真右下) 外郭内部(現観光模擬天守)
 
(写真左上・右上) 外郭
 
(写真右) 陣屋祉(現亀田小学校)
 
(写真左下・右下) 陣屋祉に隣接して建てられた観光施設亀田城(史実を再現したものではありません)
 
(写真左上) 妙慶寺
亀田藩主岩城宣隆の正室顕性院(真田幸村の娘)が開基した日蓮宗寺院。境内には顕性院の生家真田家の供養塔や顕性院の墓碑が建てられています。(写真右上)
(写真左) 熊野神社
応永5(1398)年、勧進された亀田地区の総鎮守。岩城家から信仰されていました。
(写真左下) 龍門寺
岩城吉隆が亀田に入封した際、旧領岩城から移した亀田藩主岩城家の菩提寺。境内には岩城家代々の藩主の御霊屋が設けられています。(写真右下)