角 館 古 城
秋田県仙北市(旧角館町)角館町城廻
立地・構造
 角館古城は仙北平野の北東部、檜木内川左岸の独立丘陵古城山に築かれた山城です。城の規模は東西300m×400mほど、城縄張りは山頂部に構築された主郭を中心に四方に延びた稜線を段郭群に加工した単調な構造だったと思われます。主郭の規模は東西100m×南北130mほど、大手筋は城下・根小屋に想定される北東麓に繋がるルートが想定されます。現在、城址は古城山公園として整備されています。
角館古城概念図

 築城時期・築城主体ともに不明。『戸沢家譜』によると応永31(1424)年、角館城主菅(角館)利邦は門屋城主戸沢家盛に攻められて落城し,、以後 戸沢氏が角館城主になったと記されています。(15世紀中期まで仙北郡は南部氏に軍事支配されており、戸沢氏が角館に進出したのは南部氏が仙北郡から撤退した応仁2 1468年以降の秀盛の代とする説が有力です。) その後、戸沢氏は 仙北平野の中央部への進出を開始し、楢岡城主楢岡氏と婚姻関係を結ぶほか、前田・白岩・堀田・戸蒔氏等の中小村落領主を支配下に組み込みました。 明応5(1496)年、湊安東氏が仙北進出を窺うと秀盛は弟忠盛を国境いの淀川城に移して安東氏に備え、また永正年間(1504−21年)には北侵を進める小野寺氏と対峙しましたが六郷氏等の斡旋で和議を結びました。亨禄2(1529)年、秀盛が死去し嫡子道盛が家督を継ぎましたが、道盛が幼少だったため忠盛が後見役として角館城に入り戸沢氏惣領職の奪取を企てます。このため 道盛の外戚楢岡氏や六郷・本堂・白岩氏等は忠盛のクーデターに反発して忠盛を淀川城に退去させ事件を終結させました。 天文14(1545)年、忠盛が淀川城で死去すると湊安東氏は淀川城を攻略して戸沢氏領に侵入します。しかし同16(1547)年、道盛の率いる戸沢勢は淀川城を奪還して安東勢を撤退させました。その後、道盛は土屋館主富樫勝家を支配下に納め仙北郡北部を手中にします。天正14(1586)年、横手城主小野寺義道が最上との「境目」有屋峠に出陣すると、道盛の子盛安は平鹿郡阿気野に侵攻して小野寺氏領の留守を守る大築地織部と武力衝突しました。(「阿気野の戦」) 翌15(1587)年、安東愛季が仙北郡に侵入し淀川城を攻略すると盛安は唐松野に出陣して安東勢と対峙しました。「唐松野の戦」は一進一退のまま膠着状態になりましたが、愛季が陣中で死去したため安東勢は陣を引き払い退却しました。  同16(1588)年、「湊騒動」(安東氏の内訌)が勃発すると、盛安は豊島城主安東高季方に与して安東実季の籠城する檜山城を包囲しましたが攻め切れずに撤退を余儀なくされました。同18(1590)年、盛安は豊臣秀吉の「小田原の役」に参陣して所領を安堵され(44000石)、以後 戸沢氏は豊臣政権下の大名として「文禄の役」等に参加しました。慶長5(1600)年、「関ヶ原の戦」が勃発すると盛安の嫡子政盛は東軍(徳川家康)に与して上杉景勝方の酒田城を攻撃、また上杉氏と同盟関係にあった横手城主小野寺義道と対峙するなど軍功をあげ、戦後 常陸国松岡に転封となりました。慶長7(1602)年、佐竹義宣が秋田に転封すると角館城には実弟の蘆名義勝(義広)が据えられましたが、元和6(1622)年 角館城は「一国一城令」により廃城。
歴史・沿革
古城山から角館城下を望む
メモ
仙北郡の有力国人
戸沢氏の館城
形態
山城
別名
小松山城
遺構
郭(平場)
場所
場所はココです
古城山公園
駐車場
古城山公園駐車場
訪城日
平成18(2006)年5月27日
平成20(2008)年5月30日
角館城は角館市街地の北端、通称古城山に築かれた山城で、城山の北東ー北ー西側を巡る院内川・檜木内川を自然の濠としています。(写真左上ー南西側からの遠景 写真右上ー北東側からの遠景) でっ、現在 城山山頂は古城山公園として整備され、南西麓の駐車場から林道が設けられています。(写真左ー登り口) 林道は西側斜面に敷設されたダラダラ坂になっていて(写真左下ー林道)、中腹以上では西側の段郭群を縫うように敷設されています。(写真右下)
(写真左上) 主郭西側下の腰郭
(写真右上) 主郭北側下の腰郭
主郭(写真右)
規模は東西100m×南北130mほど、内部は頂部を削平しただけの広大な平場になっていますが、西側は林道建設で改変されており、本郭内部も相当改変されているのかもしれません。(写真左下ー中央部に設置された石碑 写真右下ー南端の姥杉) 古城山は独立丘陵になっており、特に仙北平野の北東部を一望にできる要衝に位置します。
(写真左上) 主郭から角館市街地を望む。主郭では誰とも出会いませんでしたが、麓の近世角館城下は観光客でゴッタガエシテいます。
 
主郭南側下の郭は比較的規模が大きく東西50m×南北40mほど(写真右上)、副郭的な平場あるいは南側を望む物見的な性格があったと思われます。主郭との高低差は7−8mほど、切岸部分は巨大な壁になっています。(写真左)