近世角館城下
秋田県仙北市(旧角館町)角館町表町・勝楽町
歴史・沿革
 慶長7(1602)年、佐竹義宣の秋田転封に同道した蘆名義広(義勝)は角館に所領を宛がわれました。角館に入部した義広は当初、戸沢氏の旧城角館城に入りましたが、その後 小松山(古城山)の南西麓に屋敷を構え、檜木内川と外ノ山に囲まれた南北に細長い平野部に新たに町割りをおこなって戸沢氏時代の城下を移し、元和年間(1615−24年)頃 城下町を完成させました。しかし承応2(1653)年、蘆名千鶴丸の夭折により蘆名家は改易となり、代わって角館には佐竹北家の佐竹義隣(よしちか)が入部し、以後 明治維新まで佐竹北家が所預しました。なお明治元(1868)年の戊辰戦争時、秋田佐竹藩は新政府方に加担したため角館は佐竹藩領に侵攻した奥羽列藩同盟軍の攻撃に晒されましたが、攻撃の直前に東北諸藩が新政府方に降伏、秋田藩領から撤退したため戦火を免れました。

 角館城下は檜木内川左岸の平野部に建設され、大きくは中央部に設けられた「火除け地」(中央に土塁を設けた東西に細長い広場)によって北側の内町(武家屋敷)と南側の外町(町屋・寺社・足軽屋敷)に分けられています。街路は基本的に直線状に敷
設されていますが、要所には鍵折れの「桝形」を設けて見通しを遮断するとともに一気呵成に攻められないよう工夫がなされています。現在、残存する街路はほぼ100% 往時のものをトレースしたものです。
角館城下は檜木内川の東岸、小松山(古城山)南麓の平野部に建設された近世の計画都市で、現在の角館市街地がそれを踏襲しています。(写真左上) でっ、町割りの基準になったのが古城山の南西麓に構えられた蘆名氏の居館で(写真右上ー現在は某宗教法人の施設)、ここからメインストリートが南方に延び(写真左ー表町上丁)、この通路に交錯するように小路が敷設され幾何学的な町割りがなされています。でっ、城下は「火除け地」と呼ばれる東西に細長い広場で北側の内町(武家屋敷)と南側の外町(町屋・寺社・足軽屋敷)に分けられています。(写真左下ー火除け地)
小野崎家住宅(写真右下)
小野崎氏は常陸国久慈郡発祥の佐竹家の重臣。屋敷は表町上丁の上座にあります。
石黒家住宅(写真左上・右上)
石黒家は佐竹北家に仕え、おもに財政を担当したと伝えられます。玄関門に設けられた黒板塀ののぞき窓はレアなもの。
青柳家(写真右)
青柳家は蘆名義広に従って角館に入部した奥会津衆の一家。蘆名氏断絶後は佐竹北家に仕えました。門は規模の大きい藥医門形式で、屋敷割はケッコウ間口が広くなっています。
東西に細長い内町(武家屋敷)は中央部に「桝形」が設けられ、南北に分けられています。(写真左下) でっ、「桝形」の南側が勝楽町と呼ばれています。(写真右下)
岩橋家(写真左上・右上)
岩橋家は蘆名義広に従って角館に入部した奥会津衆の一家。蘆名氏断絶後は佐竹北家に仕えました。屋敷は江戸末期に改造され、屋根は茅葺きから木羽葺きに替えられました。屋敷割り・間取りは中級武家のものとしては標準的なもの。
河原田家(写真左・左下・右下)
河原田家は蘆名義広に従って角館に入部した奥会津衆の一家。(たぶん会津四家河原田氏の庶流でしょう) 蘆名氏断絶後は佐竹北家に仕えました。屋敷は江戸期の武家屋敷様式をそのまま残し、表座敷はこの地方の普遍的な書院洋式になっています。
小田野家(写真左上・右上・右)
小田野家は山入佐竹氏の庶流で、蘆名義広に随行し角館に入部した小田野重家を祖とします。蘆名氏断絶後は佐竹北家に仕え、江戸中期の「秋田蘭画」家小田野直武はこの一族にあたります。屋敷は明治33()年の大火により焼失しましたが、再建された屋敷の間取りは武家屋敷の様式を踏襲したもの。屋敷内には伝統的な庭園が残っています。
松本家(写真左下 右下ー小人町界隈)
勝楽丁の裏側(小人町)に残る下級武家屋敷。松本家は今宮家組下として角館に入部し、当初は田町に屋敷を持っていましたが、佐竹北家以後 現在の小人町に屋敷を構えました。屋敷敷地は柴垣で囲まれ、屋敷は萱葺きの簡素なものです。