小沢田館
秋田県北秋田郡上小阿仁村小沢田
立地・構造
 小沢田館は小阿仁川左岸、小沢田集落背後の北西方面にそびえる七倉山の、南側尾根先端(比高110m)に位置する山城で、西側には沢が切り込み、東側は急斜面と自然の要害となっています。大手は南側からの尾根道と想定され、ここには郭が配置されていたようです。主郭には現在七倉神社が祀られ、小阿仁川流域を見下ろす要地です。城域は狭く居住性が認められないことから、有事の際の「詰の城」・物見として使用したと考えられます。
歴史・沿革
 築城時期は不明。『秋田沿革史大成』では「古城あり、村より西の山にあり、沖田面より移りて加成三七居、落城して後、天満宮を本丸に移す」と記され、加成三七が沖田面ウトヒラ館から移転して居城としたとされます。加成三七は文禄元(1592)年・慶長6(1601)年の『秋田城之介分限帳』に192石の三分一代官として記された人物で、阿仁郡を実質支配していた米内沢城主嘉成(賀成・加成)氏の庶流と考えられます。嘉成氏の出自については葛西氏の庶流説、在地から発生した勢力説、安東政季に従い河北(米代川中下流域)に入部した安東氏の家臣説がありはっきりしませんが、戦国期には阿仁川・小阿仁川・米代川中流域に庶流を派生して勢力を拡大した国人領主と思われ、檜山安東氏が勢力を拡大する過程でその支配下に組み込まれたと推測されます。嘉成氏の所見は『聞老遺事』(南部叢書』)に記された、「十月十五日(永禄9年)、秋田愛季の家老大高主馬は比内、阿仁、松前、由利、鹿角内応の郷士六千余人を率い谷内城を囲み撃ち
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」の一文で、この文中の阿仁が嘉成氏を指すと考えられます。その後も、嘉成氏は安東軍の軍役を担い、天正10(1582)年の「荒沢合戦」、同15(1587)年の「唐松野の戦」では侍大将として賀成播磨の名が伝わっています。同16(1588)年に勃発した「湊騒動」で安東実季は檜山城に籠城しますが、嘉成一族もこれに従い、比内から阿仁郡に侵攻した南部軍と武力衝突(「米内沢塚の台の戦」)を起こしています。この戦闘には嘉成常陸介資清(康清)・嘉成右馬頭貞清・嘉成十郎兵衛尉・阿仁播磨・阿仁右兵衛尉等の阿仁衆が主力となり、南部軍を率いた萱森判官を討死に追い込み南部軍に勝利を収めました。この戦闘には加成三七も参陣したと思われます。小沢田館の消息は不明ですが、安東実季が常陸へ移封した慶長6(1601)年頃に廃城になったと思われます。
小沢田館  遠景
メモ
阿仁衆 加成氏庶流の「詰の城」
形態
山城
別名
七倉城 
遺構
郭・堀切
場所
場所はココです
七倉神社境内
駐車場
小沢田集落集会所の駐車
スペース借用
訪城日
平成16(2004)年7月12日
平成20(2008)年5月1日
小沢田館遠景
東側から小沢田館を見たところです。左側(南側)から大手筋と想定される尾根が延びているのが確認できます。
登り口
小沢田館へは南麓の七倉神社鳥居から登ります。ここが本来の大手口だったのでしょう。
登り道
登山道は七倉神社参道として敷設された道のため、尾根筋は相当改変されています。途中、郭らしき平場(写真左)や痩尾根の土橋(写真右)らしきものもありますが、真相はどうなのでしょうか。
主郭
東西50m×南北20m。現在。七倉神社が祀られていますが、東側斜面が削り取られ神社が建設されています。ここからは小阿仁川流域を一望にできます。
堀切
北側の尾根を分断した堀切で、主郭側の切岸は5−6mほど。自然地形を利用し深く掘り込んではいません。
小阿仁川流域
主郭から南側の小阿仁川上流を見たところ。加成三七が初期に居住したウトヒラ館の他に新館・福館が確認できます。若し小沢田館を含む4城が同時期に機能していたと想定した場合、明らかに南側を意識して築城したと考えられます。