洞 城
岐阜県飛騨市(旧神岡町)神岡町麻生野字城山
立地・構造
 洞城は神岡盆地の南東部、高原川の支流 麻生野川右岸の南西方向に張り出した丘陵ピーク(通称 城山 比高60m)に築かれた山城です。規模は東西100m×南北60mほど、城縄張りはピークを加工した主郭の西側に二の郭を配したシンプルな複郭構造になっていて、両郭間は高さ4−5mの段差と竪堀で画されています。規模は主郭が東西50m×南北20m、二の郭が東西40m×南北15−25m
洞城 概念図
ほど。主郭の背後は巨大な堀切で断ち切られています。なお城主の日常居館は洞城の西方700mにある両全寺境内と伝えられ、大手筋は西麓から稜線を辿るルートと想定されます。なお洞城の東方1.5kmには石神城があります。

 洞城は大永年間(1521−27年)、麻生野(あそや)右衛門大夫直盛により築かれたと伝えられます。直盛は高原郷の有力国衆 江馬常陸介時経の次男とされ、江馬氏の主城 高原諏訪城の東方を監視・警備するため麻生野に配され洞城を築いたものと思われます。永禄7(1564)年、信濃をほぼ制圧した武田信玄は譜代の山県三郎兵衛昌景を主将に飛騨に侵攻します。このため時経のあとを継いだ常陸介時盛は武田氏への臣従を余儀なくされ、次男の右馬允信盛を人質として武田に差し出します。しかし このため時盛は上杉との同盟を望む嫡子 常陸介輝盛と不和となりました。そして時盛は江馬氏の家督を信盛に譲ろうと画策しましたが失敗、さらに時盛は親武田の庶流 麻生野慶盛(直盛の嫡子)に家督を譲るよう画策します。元亀3(1572)年、上洛途上の武田信玄が突如 軍を甲斐に撤退します。そして翌天正元(1573)年、信玄死去の噂が流布すると 輝盛は父 時盛を殺害し、さらに時盛派の家臣団を粛正、そして洞城を攻撃して麻生野慶盛を自害に追い込みました。(天正6年説もあり) そして洞城は落城後、破却されたものと思われます。
歴史・沿革
洞城 主郭東側の大堀切
メモ
高原諏訪城の支城
江馬氏の庶流 麻生野氏の要害
形態
山城
別名
麻生野城
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台・虎口
・堀・土橋
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成31(2019)年4月16日
洞城は神岡市街地の南東方、下麻生野地区東方の丘陵突端に築かれた山城です。(写真左上ー南西側からの遠景) でっ、城山へは西麓に設けられた「史跡標柱」の脇から林道に入り(写真右上)、しばらく進んだところで沢を渡ります。(写真左) でっ、渡ったところから西側稜線に取りつきます。稜線は支尾根の派生もなく また緩斜面になっていて、往時の大手筋と思われます。(写真左下) でっ、城山の頂部に近ずくと稜線は急傾斜に変化し、導線は二の郭の北西端に設けられた虎口に辿り着きます。(写真右下) 虎口はシンプルなスロープ状の平虎口になっていて、導線に対して二の郭側から横矢がかかる構造になっています。
二の郭(写真左上)
規模は東西40m×南北15−25mほど、内部は低い段差で6−7段に加工されています。また北側下には7−8m切り落として幅5m前後の帯郭が設けられています。(写真右上)
 
主郭・二の郭間は4−5mの段差で画され、前面には土橋を残して南・北竪堀が穿たれています。(写真右ー主郭の切岸と土橋 写真左下ー土橋と北竪堀) でっ、主郭への導線は土橋を渡り、南竪堀側面から主郭の南側下に設けられた帯郭に繋がっています。(写真右下)
(写真左上) 主郭南側下の2段の帯郭
 
その後、大手導線は帯郭から竪土塁で区画された導線を経て(写真右上)、主郭南側に設けられた虎口に繋がっています。(写真左) 大手導線はケッコウ急峻なスロープ状の導線構造になっていて、虎口は10m×2m×高さ1mの土塁で構築されていました。(写真左下) なお土塁の側面には石積らしきものも見えるのですが ・・・・・・・・・。
主郭(写真右下)
規模は東西50m×南北20mほど、北東隅には櫓台が構築されています。
(写真左上) 北東隅の櫓台
規模は5m×10m×高さ2mほど、隣接する南東土塁間には空きスペースがあり、たぶん搦手虎口が設けられていたのでしょう。
 
主郭背後(東側)の稜線続きを断ち切った堀切は主郭側を10m切り落とした巨大なもの。これだけ説得力のある堀切を見るのは久々だな 〜〜〜。(写真右・左下)
ー 動画 洞城を歩く ー