兼 山 城
岐阜県可児市兼山
立地・構造
 兼山城は濃尾平野の北東部、木曽川左岸の丘陵ピーク(標高280m 比高170m)に築かれた山城で、南東側の稜線鞍部を利用した堀で仕切られています。城の規模は東西400m×南北250mほど、城縄張りは山頂に構築された主郭を中心に南・西側に郭を不規則に敷設した階郭式構造になっています。規模は主郭が東西50m×南北30m、二の郭が東西40m四方、三の郭が東西50m×南北30mほど。大手筋は西麓から中腹の出丸を通り主郭に繋がるルートが想定されますが、導線は不規則に配置された郭で数度にわたりクランクさせられ主郭に繋がっています。縄張り自体は段を重ねただけの古い形態になっていますが、中枢部には石垣で区画された枡形構造や主郭に見られる天守遺構など比較的新しいパーツが残存しており、数度にわたり改修が施され、近世まで使用されたと思われます。

 兼山城は天文6(1537)年,、美濃守護職土岐頼芸に仕える長井新九朗(後の斉藤道三)が東濃の支配権を強化するため、猶子の斉藤正義に築かせたと伝えられます。しかし正義は天文17(1548)年、支配下の久々利城主土岐三河守頼興に謀殺され、以後 土岐氏の属城となります。永禄8(1565)年、美濃侵攻を推し進める織田信長は東濃制圧の拠点として兼山城に重臣森可成を配置します。その後、可成は同12(1569)年の信長上洛後に宇佐山城主となりましたが、翌元亀元(1570)年 浅井・朝倉・延暦寺連合軍に坂本を攻撃されて戦死しました。可成の跡目は次男長可が継ぎ、天正10(1582)年の武田氏滅亡後 信濃国川中島を与えられましたが、同年、「本能寺の変」で信長が死去すると政情不安な信濃から離脱して旧領兼山に帰還しました。しかし長可は徳川方に与した遠山氏と対立したため、羽柴秀吉と誼を結ぶこととなり、同12(1584)年の「小牧・長久手の戦」では別働隊を組織して三河侵攻を企てましたが、徳川方に看破され長可は戦死しました。家督は長可の弟忠政が継ぎ、慶長5(1600)年の「関が原の戦」後 信濃海津城に転封となりました。その後、兼山城は尾張徳川藩の管理下に置かれ、犬山城の改修時に資材として利用され破却されました。
歴史・沿革
兼山城 大手枡形
メモ
織田氏の被官
森可成・長可の館城
形態
山城
別名
鳥峰城・金山城
遺構
郭(平場)・天守櫓台・石垣・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
「蘭丸ふるさとの森」駐車場
OR 中腹にも駐車場あり
訪城日
平成18(2006)年6月1日
兼山城は木曽川左岸の兼山地区背後の丘陵上に築かれた山城です。城へは中腹まで車道が敷設されていますが、管理人は大手筋が想定される西麓の「ギャラリー兼山」から散策路を登ってアプローチしました。(写真左上ー登り口) 途中の西側稜線には小郭が見られ(写真右上)、じきに出丸に辿り着きます。(写真左) 規模は東西50m×南北30mほど、側面には高さ3mの「野面積」が約50mにわたって築かれています。(写真左下 バッタモンのような感じも〜〜〜〜) その後、ふたたび主郭を目指して散策路を登り、三の郭の虎口に辿り着きます。(写真右下)
兼山城は主郭を中心に西・南側斜面に二の郭・三の郭を不規則に敷設させた変則的な階郭式城郭で、三の郭は中枢の西側最下段に位置します。でっ、規模は三の郭が東西20m×南北35−40m(写真左上)、二の郭が東西40m四方ほど。(写真右上 主郭の西・南側をカバーしているため実質的な幅15−20mの帯郭) 切岸部分は石積で補強されています。(写真右)
二の郭から主郭までは大手門坂と呼ばれる坂を登り(写真左下)、大手枡形(写真右下)のある帯郭を東方向に迂回して入ります。枡形には石垣を使用されており近世的な趣があります。
(写真左上) 枡形の石垣
主郭(写真右上)
規模は東西50m×南北30mほど、現在は烏龍神社の社地になっています。周囲には高さ3−5mの石垣が構築され、内部中央からは殿舎が想定される建物礎石が確認されています。また南東隅には付櫓をともなった天守が想定され、石積が残存しています。(写真左・左下) 現地説明板によると天守の規模は16−21m×17−19m、基壇の石積は高さ1−1.5m。主郭の東側下には搦手門が構えられていて、この方向が搦手筋だったようです。(写真右下)