枇杷島城
新潟県柏崎市元城町
立地・構造
 枇杷島城は鵜川の河口部、鵜川が大きく蛇行して形成された島状の自然堤防上に築かれた平城で、鵜川の流れを巧みに濠として利用して築かれていました。現在、鵜川は河川改修で流路を変えられ、また城内は高校敷地として改変されているため遺構は消滅しています。城縄張は主郭(現柏崎総合高校校地)・二の郭(主郭の東側)・三の郭(新金郭 主郭の北側)からなり、周囲は鵜川の湿地・沼沢で囲郭されていたと推測されます。主郭の規模は推定東西90m×南北120mほど、周囲を土塁で囲い、虎口は東(大手口)・西側(搦手口)に開き、昭和20年代までは高さ3−4mの土塁が残存していたようです。

 築城時期は不明。城主宇佐美氏
は平安末期、源頼朝の旗揚げに参加した伊豆国伊東郷の武士団工藤氏の庶流宇佐美祐茂を祖とします。宇佐美氏は南北朝期の祐益の代に越後守護職に任ぜられた上杉憲顕に従って越後に入部して柏崎を根拠地としました。上杉氏が越後に入部した当時、柏崎周辺には鎌倉御家人の系譜をひく在地領主安田・北条・斎藤氏等が支配していたため、憲顕はこれらの勢力を牽制するため祐益を柏崎に入部させたと推測されます。永正4(1507)年、越後守護代長尾為景は守護職上杉房能を急襲し、関東に逃れる房能を天水越で自害に追い込み越後の実権を掌握しました。このため関東管領上杉顕定(房能の兄)は越後に侵攻して府中まで制圧し、為景を越中に追い落としました。同7(1510)年、再起した為景は長森原で顕定軍を打ち敗り顕定を討死させましたが、この間 宇佐美房忠は一貫して為景に味方しています。同10(1513)年、為景の傀儡に甘んじた守護職上杉定実は実家の上条城主上条定憲・宇佐美房忠とともに反為景の兵を挙げますが、定実は為景軍に捕縛され幽閉されクーデターは失敗に終わり、このクーデターで房忠は一族とともに討死しました。享禄3(1530)年、上条定憲は再び反為景の兵を挙げます。(「上条の乱」) 当初、乱は為景軍が有利に進みましたが、為景の後盾であった幕府管領細川高国が政変で自害すると形成は除々に逆転し、坂戸城主長尾房長が為景に叛旗を翻すなど為景は四面楚歌の状態になり、天文5(1536)年に嫡男晴景に家督を譲り隠居しました。この間に宇佐美房忠の嫡男定満は長尾房長と結び枇杷島城を回復したと推測されます。天文12(1543)年、守護職定実の養子の件で下・中越は再び内乱状態になり、晴景は弟景虎(後の上杉謙信)を栃尾城に派遣し反対勢力を制圧させました。乱後、景虎を守護代に推す勢力が台頭し晴景派と対立しますが、同17(1548)年に定実の調停で景虎は晴景の養子として家督を継承しました。同19(1550)年、守護代の継承に不満を持った上田長尾政景が叛乱を起こすと、宇佐美定満は盟友関係にあった政景から離れ、景虎の配下に入り調略で政景を降し、以後景虎に従い各地を転戦しました。永禄2(1559)年に景虎が上洛し帰国した時の祝賀の記録によれば、定満は外様・譜代衆の第十二位に「琵琶島殿」と記されています。同7(1564)年、謙信が川中島に出陣中に定満は長尾政景と野尻湖で舟遊び中に舟が転覆し溺死しました。(定満の政景暗殺説あり) 定満が死去後、宇佐美氏は没落し、枇杷島城には枇杷島弥七郎・前島修理亮が入城しましたが、天正6(1578)年の「御館の乱」で前島氏は景虎に与したため滅亡、乱後 上田衆の桐沢具繁が枇杷島城主となりました。桐沢氏は慶長3(1598)年の上杉景勝の会津転封に同道し、この際 枇杷島城は廃城になったと思われます。 
歴史・沿革
枇杷島城  北西側からの遠景
メモ
越後守護職上杉氏の被官
宇佐美氏の館城
形態
平城
別名
琵琶島城 
遺構
濠祉?
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)年9月26日
枇杷島城は鵜川東岸の微高地(自然堤防?)に築かれた平城で、現在は柏崎総合高等学校の敷地になっています。(写真左上) また河川改修等により城郭遺構は完全に消滅しています。城は鵜川が乱流してできた島状の自然堤防上に築かれたと推測され、高校の北側には自然の濠をなした鵜川の旧流路が残っています。(写真右上) 旧流路は幅20−25mほど。現在、高校敷地内に城址碑が建てられています。(写真左)