馬場館
秋田県大仙市(旧協和町)協和下淀川
立地・構造
 馬場館は淀川の左岸、東から西側に突き出した低丘陵先端(比高15−20m)に築かれた平山城で、丘陵基部を空堀で分断して城域を区画した単郭の城館です。規模は東西120m×南北30mほど、東側縁部には高さ1.5−2mの土塁が築かれ、北・南側に切り込んだ沢を自然の濠として縄張りに取り込み防御ラインとしています。基本的には在地勢力の平時の居館と推測されます。
歴史・沿革
 築城時期・築城主体・館主ともに不明。
 馬場館に関しては詳細な史料はなく、伝承として馬場の集落名は馬場館主の馬場に因んだとするものだけです。館の立地・規模からすると鎌倉末期から南北朝期の在地領主の居館と思われますが、この地域(淀川流域)に関しては領主が誰だったのかも不明です。この地域(淀川流域)がにわかに史料に現れるのが、応永二十六年八月二十六日(1419年)の『南部政光置文』(『南部家文書』)に記された「八戸郷之内、其外岩手之たいらたて、山北之淀川」という文言で、当時 仙北郡を支配下においていた南部政光が一族の南部光経に前述の領地を譲るとしたものです。馬場館の位置関係から南方3kmには雄物川と淀川の合流点があり、ここが南部氏と対立していた湊安東氏との「国境い」だったと思われ、馬場館は南部氏の「境目の城」と推測されます。当然、在地領主が居住していたと思われますが、南部氏の支配下に組み込まれ南部軍が駐屯していた可能性もあります。(規模的に充分駐屯可能) ただし城自体は要害性が薄いことから改修などはなされず、どちらかというと監視機能のウエートが高かったと思われます。南部氏が仙北郡から撤退後、淀川流域は時期不詳ながら角館城に拠点を移した戸沢氏の勢力下に置かれています。『戸沢家譜』によると明応5(1496)年、角館城主戸沢秀盛は湊安東氏が仙北進出を窺ったため、弟忠盛を淀川城に移して安東氏に対する抑えとしています。この際、馬場館も戸沢氏の「境目の城」として取り立てられたと推測されます。そして天文14(1545)年、忠盛が淀川城で死去すると湊安東氏は淀川流域に侵攻し淀川城を奪取しています。馬場館はこの際、湊安東氏の属城になったと思われます。さらに天正15(1587)年、仙北郡制圧を目指す安東愛季は戸沢氏領に侵入して淀川城を攻略、さらに唐松野に進出して唐松城角館城主戸沢盛安と対峙しています。(「唐松野合戦」) この時も馬場館は安東氏の支配下に置かれたと推測され、いずれにせよ馬場館は大勢力の挟間で小規模ながら攻防戦が繰り広げられた「境目の城」だったのでしょう。
馬場館  西側からの近景
メモ
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形態
平山城
別名
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遺構
郭・土塁・堀
場所
場所はココです
駐車場
馬場地区集会所駐車場借用
訪城日
平成20(2008)年6月4日
馬場館は下淀川馬場地区東側の丘陵上に築かれた平山城です。(写真左上) 同所には同じような西側に張り出した丘陵が多いのですが、先端に熊野神社鳥居がある稜線がそれで、鳥居が登り口になります。(写真右上) でっ、藪茫々の参道を道なりに進むと熊野神社に辿り着きます。(写真左) 熊野神社は本郭の中央部に位置し、本郭の規模は東西120m×南北30mほど、ま〜〜〜 熊野神社以外は一面の藪になっています。(写真左下 ちなみに藪の酷い場所を撮ったわけではありません、どこを撮ってもこんな感じです) 東側縁部には高さ1.5−2mの土塁が築かれ、外側(東側)は幅5−6m・深さ4−5mの堀で丘陵基部と分断されています。(写真右下)