霞 城
長野県長野市松代町大室
立地・構造
 霞城は善光寺平の中央東部、千曲川右岸の奇妙山(標高1099m)から北方向に延びた支尾根先端の小丘陵(比高60m)に築かれた山城で、小ピークの主郭を中心に北・西・南側に郭を構築した小規模な城砦です。全体の規模は東西80m×南北140mほど、主郭の規模は東西20m×南北30mほど、東側は断崖になっていますが、北・西側は緩斜面になっていて、膨らんだ部分には地形に即した郭が普請されています。南側には二の郭を配置され、さらに南側は急斜面になっていて、帯状の段郭群が6−7段構築されています。ただし尾根筋には堀切はないようです。注目すべきはこの段差部分に構築された石積塁でしょう。石積は平石を横積にしたものでほぼ全体に構築され、ほとんどが0.5−1mと低いものですが、高いものは2−2.5mほどあります。霞城の周辺には同じ工法の石積を用いた中世城郭がいくつかありますが、「ひずみ」・「折れ」のある石積を構築しているのは霞城のみで、石積自体は相当新しいものと推測されます。

 築城時期は不明。城主・築城主体は善光寺平北部の在地勢力 大室氏と推測されますが、大室氏の詳細な事績・出自は不明。大室氏が史料上に現れるのは天正10(1582)年、武田氏が滅亡し善光寺平に進出した織田信長の被官 森長可が大室兵部少輔の所領を安堵してから。(それ以前の武田氏時代は不明) 同年の「本能寺の変」後、織田勢力は信濃から撤退し、かわって北信には上杉景勝が侵攻し、大室氏は以後 上杉氏の支配下に組み込まれます。同11(1583)年、大室氏は屋代秀正の謀反に加担したとの猜疑をかけられましたが、景勝に詫びをいれ再度 所領を安堵され、「新発田重家の乱」では上杉軍の軍役を担っています。慶長3(1598)年、大室氏は上杉景勝の会津転封に同道し、この際 霞城は廃城になったと推測されます。
歴史・沿革
霞城 主郭北側の石積
メモ
善光寺平の在地領主
大室氏の要害
形態
山城
別名
 大室城
遺構
郭(平場)・石積
場所
場所はココです
駐車場
南東麓の登り口前に
駐車スペースあり
訪城日
平成18(2006)年10月8日
霞城は大室集落の南側、比高70mの小丘陵に築かれています。(写真左上) 周囲には国史の大室古墳群が広範囲に広がり、霞城の内部にも古墳が包括されています。城へは南東麓の上信越道の下あたりから山道があり(写真右上 案内杭はなく、わかりずらいです。夏場はたぶん藪で見えないかも・・・・・・・・・)、藪を掻き分け進むこと10分弱で(写真左)、南側斜面に構築された石積が見られます。(写真左下・右下) 南側斜面は幅の狭い帯郭が6−7段構築され、段差部分を石積で補強しています。高さは最大1m弱ほど、ほとんどが平石を横積にしたものです。
(写真左上) 南側の段郭群
(写真右上) 南側の段郭群
主郭(写真右)
規模は東西20m×南北30mほど。東側は急傾斜の断崖になっていますが、北・西側は緩斜面になっていて、膨らんだ部分は地形に即した郭に処理されています。この段差部分はすべて石積で構築され、特に北西側の石積は高さ2−2.5mほどあります。(写真左下) また北から西側に廻り込んだ塁線には「ひずみ」・「折れ」が見られます。(写真右下) 石積が大室氏独自の構築物なのか、あるいは武田氏時代・上杉氏時代の構築物なのかは不明。
主郭の東側側面には犬走り状の通路が通り主郭への虎口が設けられていたのでしょう。でっ、ここの石積は2段に構築されています。
主郭周囲の石積は一部を除くと50cm前後の低いものが大部分で、土留めのためなのか下部のみに築かれ、上部は地山のままになっています。(写真右上) 
 
(写真左) 西側の石積
(写真左下) 西側の腰郭
(写真右下) 東側の崩落石塁