寺 尾 城
長野県長野市松代町東寺尾
立地・構造
 寺尾城は善光寺平の北東部、千曲川右岸の南西方向に半島状に張り出した稜線上(標高450m 比高100m)に築かれた山城です。城の規模は東西80m×南北250mほど、城縄張りは丘陵ピークに構築された主郭を中心に、北側稜線に北郭、南側稜線に二の郭ー三の郭ー四の郭を敷設したシンプルな直線連郭構造で構築され、各郭間は高低差の大きい切岸と堀で仕切られています。規模は主が東西20m×南北25m、二の郭が東西25m×南北30m、三の郭が東西25m×南北20m、四の郭が東西20−25m×南北100m、北郭が東西15m×南北35mほど。主郭は周囲を土塁で囲まれ、二の郭・北郭は内部を段郭群に加工されています。大手筋は南麓からのルートが想定され、二の郭から主郭への導線は堀にかけられたスロープ状の土橋から、虎口受けの郭を通り主郭に繋がっています。また主郭から北側稜線は高低差の大きい二重堀切で断ち切り、堀間に北郭が構えられ搦手(北方向)に備える構造になっています。同地は川中島、松代を見下ろす高所に位置します。

 築城時期・築城主体ともに不明。城主 寺尾氏は諏訪大社の頭役 諏訪神氏の庶流と伝えられ、戦国期 葛尾城主 村上氏の支配下にあった在地領主と伝えられます。天文19(1550)年、東信に侵攻した

寺尾城 概念図
武田晴信(後の信玄)の調略により寺尾太郎左衛門は村上氏の支配下から離脱して武田氏に内応しましたが、このため寺尾城は反武田の村上、高梨連合軍の攻撃を受けて陥落しました。同22(1553)年、武田勢の攻撃を受けた村上左馬頭義清が葛尾城を追われて越後に落ち延びた際、寺尾太郎左衛門もこれに同道しましたが、後に武田に出仕して旧領を安堵され、真田弾正忠幸隆配下の「信州先方衆」に組み込まれています。天正10(1582)年3月、武田氏が滅亡し同年6月、織田信長が「本能寺」で横死すると川中島は越後から侵攻した上杉景勝に制圧され、太郎左衛門の子 伝左衛門は景勝に出仕して荒砥城番、海津城番に配されました。慶長3(1598)年、寺尾氏は上杉景勝の会津転封に同道し、この際 寺尾城は破却されたものと思われます。 
歴史・沿革
寺尾城 三の郭東側の石積
メモ
川中島の在地国衆 寺尾氏の要害
形態
山城
別名
車城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀・土橋・石積
場所
場所はココです
駐車場
地蔵堂前に路側帯あり
訪城日
平成24(2012)年4月27日
寺尾城は寺尾地区背後の丘陵上に築かれた山城で(写真左上)、周囲には金井山城、尼巌城竹山城鞍骨城海津城を守備する武田氏の城砦群が設けられていて、寺尾城もこの一翼を担ったものと思われます。(写真右上) でっ、城への登り口は南麓の地蔵堂になり(写真左)、地蔵堂の脇に「寺尾城登り口」の誘導杭があります。でっ、誘導杭に従って登ると愛宕神社がありますが(写真左下)、ここからは特に明確な道はなく、管理人は境内脇の登り易いところからアプローチしました。(写真右下)
登山道は明確ではありませんが、斜面は「エッ」と思うほど比較的 緩斜面になっていて、じきに最下段の郭に辿り着きます。(写真左上) 郭の前面には堀切等の城郭パーツは見られず、低い段差で仕切られ、段差部分には石塁らしきものも見られます。(写真右上) でっ、郭(四の郭)の規模は東西20−25m×南北100mほど、内部は北から南側に傾斜し、全体的に平坦というわけではないようです。(写真右) 東側の側面は高さ1−1.5mの段差と石積で処理され(写真左下)、北側の三の郭とは高さ4−5mの切岸で画されています。(写真右下) 切岸下は浅い堀で処理されていたようです。
前記の浅い堀の東側の延長線には2条の竪堀が敷設されています。(写真左上) 規模は幅4−5m×深さ2m前後、北側の堀側面には石積が見られます。(写真右上)
三の郭(写真左)
規模は東西25m×南北20mほど、二の郭とは高さ4−5mの段差で仕切られています。(写真左下) ま〜〜〜、このあたりから城らしくなります。
 
二の郭(写真右下)
規模は東西25m×南北30mほど、内部は高さ2−3mの段差で画された三段構造になっています。
主郭・二の郭間は6−7m切り落とした堀で仕切られ(写真左上)、導線は土橋から虎口受けの郭(変則的な桝形か?)を通り主郭に繋がっています。(写真右上ー土橋)
主郭(写真右)
規模は東西20m×南北25mほど、周囲は高さ1−1.5mの低めの土塁で囲まれています。(写真左下ー北側の土塁) 比較的 規模は小さく、日常的な居住空間ではありませんが、物見としては充分に機能するものと思われます。(雑木が多く眺望は効きませんが ・・・・・・・・・) でっ、中央北寄りには「寺尾殿の墓」と刻まれた石碑が建てられています。(写真右下) 合掌 ・・・・・・・・・・。
主郭の背後(北側)は7−8m切り落とした鋭角的な堀切で処理され(写真左上)、土橋で北郭と繋がっています。でっ、主郭側の切岸部分には石積が見られます。(写真右上)
 
北郭(写真左・左下)
規模は東西15m×南北35mほど、内部は3−4mの段差で仕切られた3−4段の段郭に加工されています。また北郭の北側も高低差の大きい大堀切で処理され(写真右下)、スロープ状の土橋で繋がっています。この先にも遺構があると思われますが、日が沈みかかってきたため、ここで退却。
 
 
 
 
 
 
(写真左上・右) 堀切と土橋
 
秋田の中世を歩く