妻 籠 城
長野県木曽郡南木曽町吾妻
立地・構造
 妻籠城は木曽川の中流域、左岸の独立丘陵上(標高519m 比高150m)に築かれた山城です。規模は東西350m×南北250mほど、城縄張りは頂部を加工した主郭を中心に周囲に帯郭を巻いたシンプルな構造になっています。主郭の規模は東西40m×南北30mほど、主郭の東側下には馬出郭(?)が設けられ、さらに東側には堀切を挟
妻籠城概念図
んで東郭が敷設されています。大手筋は南東側の旧中山道からのルートが想定され、城へは尾根を加工した土橋で繋がっています。同地は城山の東側を旧中山道が通る交通の要衝に位置しており、これを扼する要害として取り立てられたと推測されます。なお東側の旧中山道沿いには妻籠城に関連したと思われる「妻の神土塁」があるようです。(未確認)

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には文永年間(1264−74年)、沼田右馬介家仲により築かれたとも、また時期不明ながら木曽讃岐守家村(?)により築かれたとも。室町期、この地は美濃遠山氏の所領になっており、妻籠城も遠山氏の支配下にあったと思われます。その後、戦国期 妻籠は木曽氏の支配下に置かれ、木曽義昌の時代には家臣 山村甚兵衛良勝が据えられました。天正12(1584)年3月、羽柴秀吉と徳川家康の対立から「小牧・長久手の戦」が勃発すると、羽柴方に加担した木曽義昌は美濃・信濃の「境目」妻籠城を改修したとされます。そして同年9月、妻籠城は徳川方の菅沼大膳定利・保科越前守正直・諏訪安芸守頼忠等の攻撃を受けましたが、山村良勝はこれを死守し撃退しています。元和2(1616)年、徳川幕府の「一国一城令」により廃城。
歴史・沿革
妻籠城 城への長大な土橋
メモ
木曽氏の支城
形態
山城
別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・虎口・堀・土橋
場所
場所はココです
駐車場
駐車可能な路側帯あり
訪城日
平成28(2016)年11月8日
妻籠城は中山道妻籠宿の北方1kmの独立丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー北側からの遠景) でっ、城山の東側中腹部分を旧中山道が通リ、ここから城山に登る山道が整備されています。(写真右上ー誘導杭・説明板あり) たぶん このルートが大手導線だったのでしょう。山道は稜線の側面を通リ(写真左)、じきに長大な土橋が現れます。(写真左下) 土橋は幅1−1.5m・長さ20mほど。尾根を加工して構築されたものと思われます。(たぶん 城山に繋がる尾根はここだけのようです) でっ、土橋を渡って右方向に進むと主郭部と東郭を分断した堀切が現れます。(写真右下)
堀切を見下ろすように主郭部側には東西2段の馬出状の小郭が構築され、導線は上段をグルっと廻って土橋に繋がっています。(写真左上ー東下段 7−8m×20m 写真右上ー西上段 5−6m×20m) 土橋のかかる堀は主郭部と馬出郭(?)を分断したもので幅6−7m・深さ2−3mほど(写真右)、土橋を渡ったあと 導線は北方向に敷設され(写真左下)、主郭から東方向に構築された段郭群の側面を通るように設定されています。(写真右下)
(写真左上) 主郭への導線
(写真右上) 主郭の北虎口
 
主郭(写真左・左下)
頂部を加工した平場で規模は東西40m×南北30mほど、内部は公園として整備され、説明板や城址碑が設置されています。自分が持つ資料には土塁等もあるようなのですが ・・・・・・・・・、見当たらず。でも眺望は素晴らしく南方には宿場町として有名な中山道 妻籠宿を一望にできます。(写真右下ー訪城当日、雨のため 明瞭ではありませんが ・・・・・・・・・) ロケーション的には中山道を扼する機能が想定されます。