馬 籠 城
岐阜県中津川市(長野県旧山口村)山口神坂馬籠荒町
立地・構造
 馬籠城は恵那郡東部の中山間地、比高10m弱の小丘陵に築かれた丘城です。規模は東西60m×南北100mほど、単郭構造の城館と思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。室町期の永享3(1431)年の『永享以来御番帳』には遠山馬籠左馬介の名が、文安元(1444)年の『内裏』には遠山馬籠の名が、長享元(1487)年の『常徳院殿』には遠山馬籠右馬介の名が伝えられており、室町初期には遠山氏がこの地に勢力を広げ、一族を馬籠に封じていたと思われます。天文年間(1532-55年)末期、甲斐の武田が木曽谷に勢力を広げると木曽義康は武田の支配下に組み込まれ、遠山氏もまたその支配下に置かれました。元亀3(1572)年、岩村城主景任が死去すると織田信長は自子御坊丸(のちの織田勝長)を岩村遠山家に送り込み、遠山氏を掌握しました。このため天正2(1574)年、遠山氏は武田勢の侵攻をうけ、「遠山十八支城」と称された苗木・神野・武節・今見・阿寺・馬籠・大井・中津川・鶴居・幸田・瀬戸崎・振田・櫛原・明知の諸城は陥落したとされます。(『甲陽軍鑑』) 天正10(1582)年、武田氏の滅亡後 馬籠城は木曽氏の属城となり、天正12(1584)年の「小牧長久手の戦」の際には木曽義昌の家臣 島崎将監重通が入城して徳川勢と対峙しましたが、城は陥落して重通は妻籠城に退去したとされます。元和元(1615)年、東濃・木曽が尾張藩領に変更された以降に廃城。
歴史・沿革
馬籠城 北東側からの近景
メモ
「遠山十八支城」
馬籠遠山氏の館城
形態
丘城
別名
馬籠丸山城・丸山城
遺構
郭(平場)
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成28(2016)年11月8日
馬籠城は近世宿場町として著名な馬籠宿南西方の小高い丘に築かれた中世城館です。がっ、訪城当日はあいにくの雨、ということで城址東側下の説明板のある部分のみ撮影。(写真左上・右上) ちなみに東側の車道は旧中山道になります。
ー 馬 籠 宿 ー
 馬籠宿は徳川幕府が開設した中山道の43番目の宿場町で、馬籠城の北東500~1000mに位置します。宿場町は北東ー南西方向に緩やかに傾斜した稜線に設けられ、宿場の南口には桝形が敷設されていました。明治25(1892)年の国道開設、同45(1912)年の国鉄開通が木曽川沿いに進められたため宿駅としての機能は急速に衰退し、現在は古い形態の街並みを残す集落として脚光をあびています。なお明治28(1895)年と大正4(1915)年の大火により石畳と桝形以外の古い町並みはすべて焼失し、現在の建物はその後 復元されたもの。天保14(1843)年の『中山道宿村大概帳』によると馬籠宿の宿内家数は69軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒、宿内人口は717人。
馬籠宿 南口 
桝形 
桝形 
馬籠宿 
馬籠宿 
馬籠宿 
馬籠宿 
本陣跡(島崎藤村の生家跡)
脇本陣跡 
清水家 
復元高札場 
馬籠峠 
馬籠峠