熊 木 城
石川県七尾市(旧中島町)中島町谷内
立地・構造
 熊木城は熊木川が七尾湾に注ぐ下流域左岸の段丘上(標高90m 比高80m)に築かれた山城です。城は北から南側に延びた稜線頂部に選地され、南側は熊木川を自然の濠とし、東・西側は深く切り込んだ沢で城域を区画した要害地形に立地し、全体の規模は東西100m×南北200mほど。城内部は「三か所の平坦面が尾根上に配される連郭式で、郭の間には幅の広い空堀が置かれ、郭の縁辺に土塁が築かれている。」『日本城郭大系』から転載)ようです。同地は能登内浦中島ー能登外浦富来に繋がる脇街道を見下ろす高所に位置します。

 築城時期・築城主体ともに不明。『長家伝』によると鎌倉初期、能登国珠洲郡「大屋荘」の地頭職に任ぜられた長谷部信連が能登に下向した当初 拠したとも。また南北朝期には熊木左近将監(在地国衆か?)が在城し、明徳2(元中8 1391)年に勃発した「明徳の乱」に出陣したものの「内野合戦」で討死にしたと伝えられます。その後、熊木城の消息は不明。天正4(1576)年、越中に侵攻した上杉謙信は、さらに能登に侵攻して七尾城を包囲します。しかし七尾城の守りが固かったため、謙信は周囲の支城群を先に攻略して七尾城を孤立させる策を採り、熊木城正院川尻城富来城、粟生城等の支城群は上杉勢に攻め落とされました。落城後、熊木城には三宝寺平四郎、斎藤帯刀、内藤久弥、七杉小伝次が城将として据えられましたが、翌5(1577)年 謙信の帰国中に熊木城は畠山氏の被官 甲斐親家の調略により斎藤帯刀が内応し このため落城しました。その後、熊木城には仁岸石見守が城代として入城しましたが、同年 謙信が七尾城を攻略して能登を制圧していることから、七尾城攻略後 上杉氏の属城になったものと推測されます。
歴史・沿革
熊木城 南麓からの近景
メモ
中能登の国衆 熊木氏の「要害」
形態
山城
別名
貝田城 
遺構
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場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成21(2009)年6月23日
熊木城は熊木川沿いの丘陵上に築かれた山城です。見た感じ、それほどズバヌケテ高い山ではなく、比高80mですから ・・・・・・・・、20分もあれば登れると思ったのですが ・・・・・・・・、当日の気温が高く湿度も高かったため、藪こぎする気にもなれず、眺望するだけで退散しました。 ・・・・・・・・、だから詳細はわかりません。
 
秋田の中世を歩く