剣 吉 城
青森県三戸郡南部町(旧名川町)剣吉
立地・構造
 剣吉城は馬淵川の左岸、西から東方向に延びた小丘陵(比高20−40m)に築かれた平山城で、大きくは大館・小館からなっていたようです。現在、大館は剣吉小学校校地になり相当 改変を受けて遺構は消滅。大館の東麓にあったと想定される小館も宅地化で消滅しています。大館は150m四方ほどの規模がありますが、小学校建設で地形を改変しているため実際の規模は不明。小学校の裏山には東側斜面を削り削平したと思われる平場(20−30m四方くらい)が見られます。さらに丘陵頂部に
は小規模な郭(物見か?)と堀・土塁も確認できますが、はっきり城郭遺構と断言はできないようです。

 築城時期・築城主体ともに不明。『奥南旧指禄』によると城主は三戸南部氏三代 時実の三男 孫三郎宗実を祖とする北氏とされます。(北氏については藤姓工藤氏の種市氏とする説もあるようです) 南北朝ー室町期の北氏の事績は不明。文亀3(1503)年、南部修理大夫信義が死去すると、根城主 八戸但馬守信長等は信義の嫡子 致愛(むねちか)を母方の実家 北家へ追い、信義の弟 政康に南部家の家督を継承させました。このため致愛は外祖父の北(剣吉)左衛門五郎に養育され北家の家督を継承、そして致愛の嫡子 左衛門佐信愛は南部信直につかえ北家を南部家中で根城南部、九戸氏と並ぶ勢力に成長させました。天正10(1582)年、南部晴継が死去すると、信愛は浅水城主 南遠江守康義、根城主 八戸薩摩守政栄とともに田子信直を擁立、反対派の九戸左近将監政実の意見を退け、信直に南部家の家督を継承させました。同19(1591)年、「九戸の乱」の終結後 信直は豊臣秀吉から稗貫、和賀郡を領地として加増され、信愛は稗貫郡代として鳥谷ヶ崎城(花巻城)に入城しました。剣吉城は天正20(1592)年の『南部大膳大夫分国之諸城破却令共書上之事』には「剣吉 平城 南部左衛門尉持分」と記され破却を免れましたが、その後 ほどなく廃されたものと思われます。
歴史・沿革
剣吉城 城址標柱
メモ
三戸南部氏の庶子家 北氏の館城
形態
平山城
別名
・・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・土塁?・堀切?
場所
場所はココです
剣吉小学校・剣吉城公園
駐車場
剣吉小学校駐車場借用
訪城日
平成20(2008)年10月3日
剣吉城は馬淵川左岸の東方向に延びた小丘陵に築かれた平山城です。(写真左上) 城は大館・小館からなっていたようですが、小館は宅地化で消滅し、大館は剣吉小学校の校地となり相当 改変を受けているようです。(写真左ー剣吉小学校) 小学校の裏山には斜面を削って削平したと思われる平場があり、現在は剣吉城公園になっています。(写真左下) ただし、ここまで来る間、遺構らしきものは皆無。ちなみに城址標柱は小学校に登る手前に設置されていました。(写真右上) 剣吉城公園からは北東ー南側にかけて眺望が開けています。(写真右下)
剣吉城公園からさらに頂上を目指して、藪に突入しました。北側には郭らしき平場もあるのですがはっきりしません。頂上は7−8m四方の小郭で物見が置かれていたのではないかと思われます。(写真左上) ちなみに雑木が多く眺望は効きません。でっ、西側には堀切らしきものも見られるのですが(写真右上)、これもはっきりせず、さらに城側の縁部には北側に延びる竪土塁らしきふくらみも見られます。(写真右)
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