柳 生 城
奈良県奈良市柳生下町
立地・構造
 柳生城は南北に細長い柳生盆地の中央東部、打滝川右岸の丘陵ピーク(標高322m 比高70m)に築かれた山城です。規模は東西300m×南北300mほど、城縄張りは頂部に構築された主郭を中心に北・南側に郭を敷設し、西側中腹(現在の芳徳禅寺境内・正木坂道場)に日常居館を構えた館城形態の城館だったものと思われます。主郭の規模は東西60m×南北50mほど、尾根の繋がる四方の稜線は堀切で遮断し 主郭を独立させています。

 築城時期は不明。築城主体・城主は大和国 東山中衆の一家 柳生氏とされます。柳生氏は長暦2(1038)年、関白 藤原頼通が神戸

柳生城 概念図
四箇郷を春日神社に寄進した際、「小柳生荘」に荘官として入部した大膳亮永家を祖とし 本姓は菅原と伝えられます。その後、永家の家系は荘園を押領して武士化し、柳生氏を称したものと思われます。元弘3(1331)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企て笠置山に籠ると、播磨守永珍(ながよし)は弟の中坊源専とともに これに加担して幕府軍を迎え撃ちます。(「元弘の乱」) しかし乱の初戦は幕府方の勝利で終結したため、「小柳生荘」は幕府に没収され 柳生氏は一時 衰退しました。元弘3(1333)年、鎌倉幕府が滅亡し 「建武政権」が発足すると「小柳生荘」は中坊源専に宛がわれ、後に源専は兄の永珍に譲り、ふたたび柳生氏がこの地を統治することとなります。南北朝以降、大和国中(くんなか)は興福寺寺僧の衆徒(筒井氏、古市氏等)と春日神社の神人(じにん)(国民 ー 越智氏、十市氏等)が武士化して国衆に成長し、有力国衆の越智氏と筒井氏が中心となって離合集散しながら抗争を繰り広げていました。この頃の柳生氏の事績は不明ですが、国中の抗争に巻き込まれていたものと思われます。天文5(1536)年、河内・山城半国の守護代 木沢左京亮長政が大和へ侵攻すると柳生美作守家巌(いえよし)はこれに加担しました。しかし同11(1542)年、長政が「河内大平寺の戦」で討死すると、筒井城主 筒井栄舜坊順昭は木沢氏残党の制圧に動き、同13(1544)年 柳生城は筒井勢の攻撃を受けて陥落、家巌は筒井氏の支配下に組み込まれました。永禄2(1559)年、三好長慶の命を受けた松永弾正忠久秀が大和に侵攻し大和国衆を攻撃すると、家巌は嫡子の新左衛門宗巌(むねよし)とともに筒井の支配下から脱して松永久秀に出仕しました。永禄7(1564)年、三好長慶が死去し、翌8(1565)年 三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が将軍 義輝を暗殺(「永禄の変」)すると、松永久秀は三好三人衆と三好家の家政を巡って対立します。そして永禄10(1567)年、松永久秀は南都奈良において三好三人衆・筒井順慶連合軍と対峙し、この際 家巌・宗巌父子は久秀方に加担しています。(「東大寺大仏殿の戦」) 翌11(1568)年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと松永久秀は信長に臣従し、宗巌もまた織田勢に参陣して大和制圧戦出陣しています。そして元亀2(1571)年、松永久秀と筒井順慶が対峙した際、宗巌は松永方で出陣します。(「南都辰市の戦」) しかし(いくさ)は松永方の敗北で終結し、戦後 筒井順慶は織田信長に降伏しています。そして天正5(1577)年、松永久秀が信長に謀反を企てて自害したのち、宗巌は大和国主 筒井順慶には従わず柳生荘に隠棲し、この頃から新陰流剣術の研鑽に励んだとされます。天正13(1585)年、国替えにより羽柴秀吉の弟 小一郎秀長が大和に入封します。そして同年、「太閤検地」により柳生荘に隠田の存在が発覚し、このため柳生氏は所領を没収されました。(『藩翰譜』) 文禄3(1594)年、石舟斎宗巌は徳川家康の招きを受けて 五男の又右衛門宗矩とともに家康に謁見します。そしてこの後、宗矩は兵法(剣術)指南役として徳川家に出仕しました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」で宗矩は大和の国衆を徳川方にまとめあげて石田方を牽制し、この功により戦後 宗矩は柳生荘の旧領2000石を回復しました。その後、宗矩は将軍 秀忠、家光の兵法(剣術)指南役をつとめ、さらに寛永9(1632)年には幕府の大目付に就任して功績をあげ、同13(1636)年 宗矩は1万石の所領を宛がわれて柳生藩を立藩しました。そして宗矩は寛永19(1642)年、柳生陣屋を新たに築きました。なお柳生城は柳生氏が所領没収となった天正13(1585)年頃、破却されたものと思われます。
歴史・沿革
柳生城 主郭東側の堀切
メモ
大和国の東山中衆
柳生氏の館城
形態
山城
別名
小柳生城
遺構
郭(平場)・虎口・土塁・堀
場所
場所はココです
駐車場
登口に観光駐車場あり
訪城日
平成29(2017)年4月20日
柳生城は南北に細長い柳生地区の中央東部、現在 芳徳禅寺のある小高い丘陵を城域とした山城(丘城?)です。(写真左上ー北西側からの遠景 写真右上ー芳徳禅寺から主郭方向を望む) ちなみに芳徳禅寺から南西500mには近世の柳生陣屋があります。でっ、芳徳禅寺境内もまた柳生城の一部と推測され(写真左)、規模は推定 東西100m×南北130mほど、内部は3−4mの段差で画された南北の2段構造になっています。(写真左下ー上段の芳徳禅寺本堂 写真右下ー下段) ま 〜〜〜、往時は柳生氏の日常居館が構えられていたと思われますが、内部は相当 改変されているのでしょう。でっ、下段の西側縁部には幅2−3m・高さ1mの土塁が残ります。
(写真左上) 下段西側縁部の土塁
 
でっ、柳生城の主郭へは正木坂道場(写真右上)の向かい側から山道があり ここからアプローチします。(写真右) でっ、山道を進むと最初の城郭遺構が見えてきます。(写真左下) 遺構は主郭の南側稜線を断ち切った堀切で、規模は幅7−8m・深さ4−5mほど。主郭側は主郭南側の腰郭になっていて、現在は市の水道施設が設置されています。(写真右下) 腰郭の規模は東西15m×南北25mほど、主郭とは3−4mの段差で仕切られています。
(写真左上) 主郭・南腰郭間の段差との段差
主郭への導線は南西側斜面に設けられたスロープ導線になっていて(写真右上)、導線は主郭西側下に設けられた虎口受けと思われる小郭(写真左)を経て主郭に繋がっています。
主郭(写真左下)
規模は東西60m×南北50mほど、土塁等の城郭パーツは認められず。また北側には腰郭が1段 敷設され(写真右下)、先は堀切で処理されています。腰郭の規模は東西20m×南北10mほど。
主郭から四方に延びた稜線はそれぞれ堀切で処理されています。
写真左上ー北側の堀切、幅6−7m・深さ4−5mほど。
写真右上ー北西側の堀切
写真右ー東側の堀切、幅15−20m・深さ4−5mほど。
 
北堀切の北側には北郭が設けられています。(写真左下) 規模は東西15m×南北20mほど、北縁には高さ1m弱の土塁が築かれています。(写真右下)
ー 動画 柳生城を歩く ー