奈 良 井 城
長野県塩尻市(旧楢川村)楢川奈良井
立地・構造
 奈良井城は奈良井川上流部の左岸、北から南側に張り出した河岸段丘先端(比高30m)に築かれた崖縁城です。規模は東西60m×南北80mほど、城はカツ沢と呼ばれる自然の濠と西ー北側に敷設された人為的な堀で区画された単郭構造になっています。主郭の規模は東西50m×南北60−65m、堀の規模は幅10m・深さ3−4mほど。大手筋は南西側からのルートが、搦手は北西部の土橋がそれと想定されます。同地は明確な要害地形ではありませんが、中山道を見下ろす高所に位置しており、交通の要衝を扼する機能をもった在地勢力の日常居館として取り立てられたものと思われます。
奈良井城 概念図
 築城時期・築城主体ともに不明。戦国後期の城主 奈良井治部少輔義高は木曽義在の子で木曽義康の弟と伝えられます。(妙義山城主三村氏の一族説もあり) 天文24(1555)年、甲斐 武田晴信の木曽侵攻が本格化すると義高はいち早く武田に出仕して木曽福島攻めに参陣したとされます。天正10(1582)年、織田信長の武田攻めが開始されると義高は木曽義昌とともに織田方に寝返り、その後は木曽氏の支配下に組み込まれたとされます。天正12(1584)年に勃発した「小牧長久手の戦」の際、木曽義昌が突如 徳川から羽柴方に寝返ると義高は贄川氏・千村氏とともに徳川方に通じ、このため義高は木曽義昌に成敗されたと伝えられます。
歴史・沿革
奈良井城 西側の堀
メモ
奈良井治部少輔義高の居館
形態
崖縁城
別名
奈良井氏館・奈良井義高館
遺構
郭(平場)・堀・土橋
場所
場所はココです
駐車場
道の駅 「奈良井木曽の大橋」
の駐車場借用
訪城日
平成28(2016)年11月10日
奈良井城は奈良井川の北岸、観光地として有名な奈良井宿背後の河岸段丘上に築かれた崖縁城です。(写真左上ー南東側からの遠景) でっ、城址へは南麓にある法然寺(写真右上)の墓地脇に誘導杭が設置されていて(写真左)、ここからカツ沢にそってアプローチできます。(写真左下) 本来の大手筋は南西側中腹の稲荷神社を経て登るルートらしいのですが ・・・・・・・・・、このルートは未確認。でっ、現在のアプローチルートを使うと西側の堀にたどり着きます。(写真右下) 堀の規模は幅10m・深さ3−4mほど、堀は城の西⇒北側に廻り込んで城を独立させています。なお法然寺は慶長5(1600)年の「関ヶ原」の際、徳川秀忠が滞在して陣屋にしたと記録されているようです。
(写真左上) 西側の堀
(写真右上) 北側の堀
(写真左) 北西部の土橋
 
主郭(写真左下・右下)
規模は東西50m×南北60−65mほど。以前は耕作地だったようですが、現在は下草が刈られ良好な状態で保存されています。ま〜〜〜、特に土塁等の遺構は見られず北西部に搦手導線と思われる土橋が設けられているのみ。
史跡標柱 
 
ー 奈 良 井 宿 ー
 中山道69次の34番目(木曽路11宿の2番目)の宿場町。奈良井川上流の左岸に位置し、中山道にそって約1kmにわたり往時の面影を色濃く残す町並みが保存されています。昭和53(1978)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。天保14(1843)年の『中山道宿村大概帳』によると奈良井宿の宿内家数は409軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒、宿内人口2155人。
木曽の大橋 
宿場 
宿場 
桝形 
中村屋 

元櫛問屋、奈良井宿の典型的な民家造りの住宅。塩尻市の有形文化材に指定。