千石家陣屋
秋田県にかほ市(旧仁賀保町)平沢字前谷地
立地・構造
 千石家陣屋は仁賀保平野の北部、鈴地区南方の低丘陵上(比高10−15m)に築かれた近世陣屋です。陣屋は大日神社の祀られる丘陵の西側斜面を切り崩して平場が造成され、規模は東西40−50m×南北35−40mほど。北側縁部には高さ2mの土塁が築かれ、北西隅に虎口が設けられていたようです。

 元和9(1623)年、「大坂の陣」での軍功により常陸国武田領主仁賀保兵庫頭挙誠(きよしげ)は旧領仁賀保郷に一万石を宛がわれると、塩越に居を構えて仁賀保藩を立
藩します。しかし寛永2(1625)年、挙誠が死去すると仁賀保領は挙誠の遺言により嫡男蔵人良俊が家督を継いで七千石を相続し、次男内膳誠政に二千石、三男内記誠次(のぶつぐ)に千石が分知され、それぞれ幕府旗本となりました。寛永8(1631)年、良俊が嗣子なく死去すると仁賀保嫡流家は改易となりましたが、「二千石家」と「千石家」は存続して平沢に共同で陣屋を構えました。しかし天保7(1836)年、仁賀保右京(「千石家」)の代官遠田四朗右衛門は「二千石家」の代官斎藤茂右衛門と不和となり、「千石家」領内の鈴村大日堂の山続きを切り崩して新たに役所を建て平沢陣屋から分離します。そして平沢にあった米蔵や牢小屋等を鈴村に移し、四朗右衛門一家もここに移り住みました。その後、ほどなく四朗右衛門は鈴村役所で病死し、代官役は養子の条之助が仰せつかり、両仁賀保家は和解して「千石家」は鈴村役所を廃して、ふたたび平沢陣屋に復帰しました。
歴史・沿革
千石家陣屋  西側からの近景
メモ
仁賀保千石家の陣屋
形態
近世陣屋
別名
千石屋陣屋・鈴村役所
遺構
郭(平場)・土塁?・虎口?
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成27(2015)年5月30日
千石家陣屋は鈴地区南方の小高い独立丘陵に構えられた近世陣屋です。(写真左上ー西側からの近景) がっ、近くには遺跡標柱はおろか遺跡を示すものは皆無。なんとなく北西側からアプローチすると陣屋祉と思われる平場に辿り着きます。(写真右上) でっ、現在 耕作地になっている平場の規模は東西40−50m×南北35−40mほど、北側縁部には風除けと思われる高さ2mの土塁が築かれ、北西端に虎口?が設けられています。(写真左) さらに東側の最高所にも平場があって大日神社の境内になっていますが、陣屋に関連していたかは不明。(写真左下・右下) いずれにしても寿命の短く小規模な陣屋だったのでしょう。