寄騎館
秋田県大仙市(旧西仙北町)西仙北町芦沢
立地・構造
 寄騎館は雄物川右岸、南側に延びた雄物川の河岸段丘先端(比高5−10m)に築かれた平城(居館?)で、西側は雄物川を、東側は芦沢川を自然の濠として城域を区画しています。寄騎館の南東から南側には雄物川の氾濫原(旧河道)が残存し、往時は湿地帯だったと推測されます。現在、内部は宅地化・開墾・JR奥羽線・国道13号敷設で改変され遺構等は確認できず、内部構造は不明。
歴史・沿革
 築城時期は不明。一説には明応年間(1492−1501年)に落合新九郎により築かれたとも。菅江真澄の『月の出羽路』には「与力館には苅和野兵左衛門某住なりし跡也。物見の岡は往来の辺に近し、外堀の跡は田となりぬ。小足沢の水を曳きいれて巡せりと察たり。本城は食川(雄物川)の岸にてみな崩うせたけれど・・・・・・・、回りの渠形それと見ゆ・・・・・・・・・、また小井の跡あり、・・・・・・・」と記され、城主は刈和野周辺を領有していた在地領主旗幅氏とされます。旗幅氏についての出自は不明ですが、『戸沢家譜』によると戸沢家盛の代(1410年以降)から旗幅源左衛門・内膳・三郎等の名が見られ、この頃には刈和野周辺を統治する勢力だったと考えられます。応永18(1411)年、南部守行は仙北郡に侵攻して支配下に収め、さらに秋田郡を支配した湊安東氏と対峙します。南部氏の版図は刈和野から淀川まで広がり、この間旗幅氏は南部氏の支配下にあったと思われます。寛正年間(1460−65)に南部氏の仙北郡代金沢右京亮は小野寺・安東連合軍との抗争に敗れ、南部氏は仙北郡からの撤退を余儀なくされました。南部氏撤退後、角館城に進出した戸沢氏はさらに仙北郡へ勢力を拡大し、明応5(1496)年に当主秀盛は弟忠盛を湊安東氏領との境目淀川城へ封じます。旗幅氏が戸沢氏の支配下に組み込まれたのは、この間と推測され、以後旗幅氏は戸沢氏の生命線である雄物川舟運と、角館と由利郡を結ぶ東西往還が通る経済・戦略上の要衝地刈和野を守備したと考えられます。天正15(1587)年の「唐松野合戦」には旗幅内膳が出陣しています。
寄騎館  南東側からの近景
メモ
仙北北部の在地地侍
旗幅氏の居館
形態
平城
別名
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遺構
濠祉
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成20(2008)年6月13日
寄騎館近景
南東側から寄騎館を見たところ。寄騎館は南側に張り出した雄物川の河岸段丘先端に位置し、東側は芦沢川(写真右)を自然の濠として利用されています。内部は宅地化で改変され、また北側はJR奥羽線・国道13号敷設で城域は不明。写真中央に見える山は高寺城で、寄騎館の「詰の城」と考えられます。
寄騎館の南端部分。現在、芦沢川が東から南・西側縁部を蛇行して流れていますが、往時西側は雄物川に接していたと推測されます。  西側の濠祉
深さ3−4mほど、現在は芦沢川が流れています。