棚 木 城
石川県鳳珠郡能登町棚木
立地・構造
 棚木城は宇出津湾に面し南東方向に突き出した半島状の丘陵 遠島山先端(比高15−20m)に築かれた平山城(岬城)で、全体の規模は東西500m×南北150mほど。 内部は公園整備で遺構等はほぼ消滅していますが、主郭、二の郭、月見御殿等の地名が残り、内部にはいくつかの郭が敷設されていたと推測されます。また 北側の入江には「舟隠し」と伝えられる場所があることから、水軍基地を兼ねた城郭だったと推
測されます。また往時、北側には深く海が切り込み、北西方向に繋がる稜線の狭まった部分を堀切って城域を独立させていたと思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には15世紀末期頃、能登国守護職 畠山左衛門佐義統(よしむね)の次男? 棚木左門により築かれたとも。大永年間(1521−28年)頃、棚木新五連之が長秀連の養子に送り込まれると長氏家中では内訌が勃発し、長対馬守英連がこれを鎮圧する事件が発生しています。その後、連之は奥能登に逃れて黒滝長氏の祖となりましたが、このため棚木氏はもともと鎌倉期に能登国「大屋荘」に入部した長氏の庶流とする説もあるようです。天正4(1576)年、能登に侵攻した上杉謙信は、同5(1577)年 七尾城を攻略すると奥能登正院川尻城に長景連(黒滝長氏)を配置して統治させます。しかし同6(1578)年、謙信が死去し「御館の乱」が勃発すると、景連は織田信長に誼を通じた温井景隆、三宅長盛等の旧畠山氏家臣団の攻撃を受けて越後に退却を与儀なくされました。同10(1582)年、越中魚津城で織田軍と対峙していた上杉氏は、長景連等を宇出津に派遣して棚木城を占拠させましたが、前田利家が急遽 与力の長九郎左衛門連龍を棚木城に派遣し、連龍は激戦の末 棚木城を攻略して景連は討死しました。
歴史・沿革
棚木城 「米流し坂」
メモ
長氏の庶子家 棚木氏の館城?
形態
平山城(岬城)
 別名
 遠島山の城
遺構
郭(平場)・堀祉
場所
場所はココです
駐車場
遠島山公園駐車場
訪城日
平成18(2006)年7月9日
棚木城は奥能登内浦に突き出した半島状の丘陵上に築かれた平山城です。(写真左上) 現在、城址は遠島山公園に整備され公園の入口部分には馬洗池祉が残っています。(写真右上) この部分は城址の北西端に位置し、外郭部分だったのでしょう。でっ、さらに進むと「米流し坂」と呼ばれる竪堀が見られます。(写真左・左下)  天正5(1577)年の上杉侵攻の際、籠城方はこの坂に米を流して水が充分にあるとカモフラージュしたと伝えられます。ま〜〜〜、七尾城にも同様の伝承があることから、後世の創作なのでしょう。
月見御殿(写真右下)
城内最東端に位置する平場。説明板によると城主の愛姫が屋敷を設け、十五夜の満月には城兵を集めて月見の宴を開いたとされます。
城址内部には主郭(写真右上)・二の郭(写真左上)の表示があるため大体の位置関係はわかりますが、公園整備のため明確な遺構はなく、また各郭の範囲も不明瞭になっています。主郭の北側には堀状の地形も見られるのですが、遺構かどうかは不明。(写真右)
 
棚木城の北側、入江が深く切り込んだ部分には「舟隠し」と呼ばれる場所があります。(写真左下・右下) 岬に築かれた城の多くには水軍基地をともなった類例も多く、「舟隠し」と呼ばれてはいますが、本来は水軍基地が設けられていたと思われます。
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