男 鹿 の 砲 台 祉
秋田県男鹿市
 近世、江戸幕府は沿岸防備と鎖国体制の完結のため各藩に番所の設置を命じ、久保田佐竹藩でも男鹿島の船川、小浜、戸賀、畠、北浦の五ヶ村に寛永20(1643)年、唐船番所を設けました。しかし18世紀末頃から異国船の出没が頻発するようになると久保田藩は寛政12(1800)年、戸賀、北浦、小浜、船川の唐船番所を再構築して藩士二名を輪番で常駐させます。そして嘉永7(1854)年、久保田佐竹藩は台場(近代砲台)の構築を前提とした測量を開始しました。(大砲が構えられたかは不明。当時の久保田藩は慢性的な財政逼迫状態でした。)
泉台台場祉 
『秋田県遺跡地図情報』によると男鹿市役所西側に台場は置かれていたようですが、当地は相当低い平野部に位置しており、もしかしたら隣接して公園になっている「鯨学校」祉(高台)がそれなのでは?。
男鹿市船川港船川字泉台 (場所はココです)
垂水台場祉 
『秋田県遺跡地図情報』によると垂水台場は門前集落中央の高台に設けられていたようですが、現在 当地は一般の民家・宿泊施設になっていて特に遺構は見られません。
男鹿市船川港本山門前字垂水 (場所はココです)
戸賀台場祉 
『秋田県遺跡地図情報』によると戸賀台場は戸賀湾西側の日本海に突き出した断崖上にあったようです。(未訪)
男鹿市戸賀塩浜字元崎 (場所はココです)