院内銀山
秋田県湯沢市(旧雄勝町)院内銀山町
歴史・沿革
概 要
 院内銀山は秋田県の南端、雄物川の源流(十分一沢川)沿いにあった鉱山です。銀山は慶長11(1606)年、鉱山師村山宗兵衛らによって発見され、久保田佐竹藩直営の直山(じきやま)として開発されました。銀山は江戸期を通じて日本最大の銀山とされ、銀山町は最盛期には戸数4000戸、人口15000人を擁する藩都久保田に次ぐ町に成長しました。江戸中期、鉱脈の枯渇により一時、
天保期の院内銀山絵図(現地説明板から)
鉱山は直山から請山になりましたが、19世紀初期 新鉱脈が発見され、ふたたび直山に取り立てられ、久保田藩の財政を潤しました。明治維新後、鉱山の経営権は工部省に移管され、これにともなって雄勝峠が整備され鉱物の輸送が容易となります。その後、鉱山の経営権は小野組が握り、小野組解散後の明治18(1885)年 工部省から古河鉱業に払い下げられました。古河鉱業は最新式の堀削機器を導入し、また西洋の鉱山技術を学んだ技術者を採用して近代的な鉱山経営を行ったため銀の産出量は飛躍的に延び 年4100貫に達しました。しかし明治末期、国際情勢の変化により銀の価格が暴落し、このため収支が悪化したため大正10(1921)年、一時 休山となりました。その後、規模を縮小して操業を再開しましたが、昭和29(1954)年に閉山。   (場所はココです)
院内銀山は院内地区から西方4.5kmの雄物川源流沿いの谷間にあります。院内からだと国道108号を本荘方向に西走し、しばらく進むと進行方向左側に誘導杭と説明板が設置されています。ここから銀山町までは1.5kmほど、雄物川源流(十分一沢川)を遡ります。
(写真左上) 芭蕉碑
天保13(1842)年、院内銀山在住の俳譜宗匠村木具友等により芭蕉翁150年忌を期して建立。
(写真右上) 十分一御番所祉
慶長13(1608)年、久保田藩が置いた番所。番所には高札場を設けられ、種々の掟を定めて山内の警備を厳重にしました。また銀山に納入される物資はここで十分の一の税を徴収されました。
(写真左) 異人館祉
明治12(1879)年、工部省が鉱山の近代化のため、ドイツ人技師バンザー、ロージングらを招聘した際、建築された洋式住宅。現在は路面に面した石垣が残るのみ、建物は大正期に払い下げられ、十文字の銀行建物として使用されました。なお、現在のJR院内駅(院内銀在資料館併設)は異人館をモチーフにしたもの。
(写真左下) 院内銀山三番共葬墓地
銀山には開山以来、日本各地から多数の人足が集まり、この地で生涯を終えた人もいました。このため銀山町には共同墓地が設けられていました。
(写真右下) 主鈴坂
(写真左上) 主鈴坂の石碑
山市竪抗(やまいちたてこう)掘削の際、ドイツ人技師に協力した坂崎太吉氏の功績碑。
(写真右上) 主鈴坂の石碑
院内銀山を発見した村山宗兵衛らを顕彰するため、嘉永元(1848)年に建設された報恩碑。
主鈴坂から金山神社間は十分一沢川の狭隘地になっていて、この間に銀山町への出入口表御門と表御番所が構えられていたようです。(写真右)
(写真左下・右下) 金山神社
院内銀山開山とともに創建された鎮守社。現在の社殿は文政13(1830)年に建てられたもの。社殿の前には楼門形式になっています。なお秋田では「金山」は鉱山を意味し、「木山(きやま)」とともに藩の重要な収入源でした。
(写真左上・右上) 御幸坑
一般的に五番坑と呼ばれる坑道。明治14(1881)年9月21日、東北御巡幸の際 明治天皇がこの坑道を視察されています。これに因んで五番坑は「御幸坑」と命名され、9月21日は「鉱山記念日」と定められました。
(写真左) 西光寺祉
慶長12(1607)年、創建された浄土宗寺院。寛文12(1662)年、落雷により消失。その後、再建されるも大正末期、鉱山の衰退により廃寺。
(写真左下) 正楽寺祉
慶長11(1601)年、創建された一向宗寺院。境内には銀山最盛時の有力者の墓碑が多数あるようです。昭和中期まで存続。