大沢山の戦い
秋田県横手市(旧雄物川町)雄物川町大沢
 戦国時代、日本全国で毎日のように「(いくさ)」が行われていました。当然、秋田県内でも起こっていたわけで、安東愛季の「鹿角侵攻」(永禄7 1564年)、「有屋峠の戦」(天正14 1586年)、「唐松野の戦い」(天正15 1587年)、「檜山籠城戦」(天正17 1589年)等々・・・・・・・・。天正10(1582)年に起こったとされる「大沢山の戦」もそのひとつです。でっ、この「大沢山の戦」ですが、実は一次史料にはなく、唯一 『奥羽永慶軍記』に 「油利・山北境合戦ノ事」として記されたものです。御存じのように『奥羽永慶軍記』は江戸初期(元禄期)、横堀の住人戸部正直が東北各地に残る伝承を採集して編纂したもので、横串として一次史料を通さないと判断の難しいものです。さらに当該の事実・事象から約70−100年後に記され、また伝承媒体が極端に脆弱なため、ノンフィクションを素材としたフィクション(軍記物)と捉えた方がわかりやすいかと思います。ただし秋田県内に残る一次史料は非常に数が少なく、また断片的なものしかなく、いつしか『奥羽永慶軍記』が史実として語り継がれ、後世の人により「油利・山北境合戦ノ
事」「大沢山の戦」に変化して独り歩きしたものなのでしょう。

 『奥羽永慶軍記』「油利・山北境合戦ノ事」については右にサムネイルを張り付けましたので、一読して頂きたいと思います。内容は至極簡単なものです。天正10(1582)年7月、小野寺景道(輝道か?)は織田信長に拝謁するため上洛を企画します。そして留守中の領内の安定を図るため、由利十二頭に人質を要求しました。しかし小野寺氏のもとに送られた石沢氏の母、赤尾津・岩屋・滝沢・仁加保・内越からの人質が自害をしたため、由利十二頭は激怒し、8月28日 由利十二頭軍は小野寺領に侵攻して大沢山に陣を敷きました。これに対して小野寺氏もまた軍勢を組織して、これに対峙しました。
『奥羽永慶軍記』 「油利・山北境合戦ノ事」
『奥羽永慶軍記』によると小野寺軍は総勢8000の組織能力は両陣営ともにありませんし、おまけに両陣営ともにオールスターとは?) その後、戦端は切られ、由利十二頭軍が50人、小野寺軍が480人の戦死者・被害を受ける大乱戦となりましたが、戦は日没をもって終結します。その後、横手城に戻った
小野寺義道が残った由利十二頭からの人質を返したため、由利の諸将は義道の仁心に感じ入ったとさっ。

 簡単に戦の概略を記すとこんな感じでしょうか。記された内容は「誰それがどうした」とか軍記物としてはケッコウ面白いのですが、史料としてはどうでしょうか。ハッキリ言って突っ込みどころ満載です。でっ、地名として唯一 出てくるのが由利十二頭軍が陣を敷いたとされる「大沢山」のみ、実は場所がハッキリわかっていません。常識的に考えると雄物川西岸、大沢地区背後の丘陵とするのが妥当なのでしょう。(「大沢山」と呼ばれる山はないようです) ま〜〜〜、ここだと旧東由利町
玉米からの本荘街道(現在の国道107号)が通っていて、由利郡からのアクセスに充分対応できるし、また東側には小野寺領が眺望できます。でっ、「油利・山北境合戦ノ事」には戦闘のあった場所は具
体的に記されていませんが、たぶん平野部の大沢周辺がそうだったのでしょう。でもここで疑問が。雄物川西岸の大沢地区には小野寺氏の支城が3ヶ所あります。これらの支城は由利衆に備えたものと推測され、本荘街道を挟み込むように館森館と大沢城が、また雄物川に面した断崖上に三吉山末館が構築されています。どの城も城自体は小規模なものですが、兵の駐屯は可能な空間を控えており、当然 これらの城に兵を詰めていたと思うのですが、これらについては記されていません。また支城を持っているということは、無理に野戦に持ち込む必要もなく、長期戦に持ち込めるということ。ハッキリ言って、野戦を行った場合 両陣営ともに相当数の被害を計算に入れねばならず、いきりたって野戦に突入したとは考えられないし、また普通はしないでしょう。また「大沢山」を占拠した由利衆がノコノコと山を下りてくるというのもなんだかな〜〜〜。でもそれ以前に一番大きい疑問は天正10年のこの時期、双方ともにオールスターズで軍陣が組めたかということ。これが一番重要。なぜなら当時の政治情勢がこれを簡単に許すとは考えずらいのだが。

 天正9(1581)年、鮭延秀綱を降した最上義光は有屋峠を境に小野寺氏と対峙し、また庄内の武藤氏とも敵対関係にありました。このため小野寺氏は対最上という利益関係から武藤氏と同盟を結びます。一方、最上氏は檜山安東氏と誼を結びこれに対抗します。この状況下で由利十二頭はどうだったかというと、由利衆はもともと各家の外交政策にもとずいた「頼んだる寄親」に事大していて、特に地理的な関係から寄親を選ぶ傾向にありました。具体的には北部の羽川・赤尾津(小介川)氏は安東氏と、東部の玉米・下村・矢島大井氏は小野寺氏と、南部・中央部の仁賀保・鮎川・内越・子吉氏は武藤氏との関係が強く、その影響下にあったものと思われます。なので小野寺氏が由利十二頭に対して人質を要求できるわけもなく、また影響下の由利衆以外は人質を差し出すとは考えずらいのだが・・・・・・・・・?。

 さらにもうひとつ、天正10(1582)年の夏頃から庄内の武藤義氏が由利に侵攻しているということ。天正十年七月五日付の武藤義氏が戸蒔中務少輔に宛てた書状には由利の安定を乱す(武藤氏に従わない)小介川氏を討伐するため由利に攻め入ること、またこの軍事介入に小野寺・戸沢氏が干渉しないよう戸蒔氏に動いてほしいことが記されています。(戸蒔氏は戸沢氏旗下の与力)  武藤氏が由利に侵攻した時期は史料がなく不明な点が多いのですが、遅くとも7月末頃には開始されたと思われ、翌11(1583)年1月まで義氏は由利に在陣していたと思われます。天正十一年一月十一日付の武藤義氏から金石見守(小野寺家臣)に宛てた書状には「・・・・・・・・・ 自秋田之取出へ押懸、内木戸斗候取成候。其後者早春四日、荒澤之城及行、外構悉打破焼払、実城斗ニ成候。・・・・・・・・・」と記されていて、由利に侵攻した庄内勢は小介川氏救援のため動いた 檜山安東氏の外構(陣地か?)を攻撃して内木戸だけとし、また荒沢城(小介川氏の拠点)を攻撃して外構(外郭か?) を焼き払い、実城(本城)だけにしたことが報告されていま
「戦」があったと思われる大沢地区
館森館
大沢城
三吉山末館
す。これを読む限りでは武藤氏優勢で戦況は動いていたと思われますが、天正十一年一月二十六日付の下国(安東)愛季から小野寺遠江守(輝道)に宛てた書状には「追示給候。由利内陣中利運之趣、被及聞食被露紙面候。畏悦此事候。(いずれ申し述べようと思っていたところである。由利での戦いが優勢に向かっていることについて、貴殿もお聞きになったようで、書面で祝意をいただいた。私もこの上ない喜びである。)・・・・・・・・・」と記されており、1月中旬以降 潮目が変わり安東氏優勢になったようです。また同年一月二十四日付で安東愛季は小介川図書助に感状を給し、同年三月九日には一部式部少輔宛で同じく感状を給してており、この頃 武藤氏は小介川氏討伐を諦めて庄内に撤退したと思われます。

 武藤氏の由利での行動は史料上からは断片的にしか把握できませんが、武藤氏が由利に侵攻した同じ時期に由利十二頭オールスターズが小野寺領に侵攻したとは想定できず、『奥羽永慶軍記』に記された「油利・山北境合戦ノ事」は実際にはなかったのではないでしょうか。しかし伝承が残っていたことから、天正10年 この周辺でなんらかの内乱があったのかもしれません。前記した天正十一年一月二十六日付の下国(安東)愛季から小野寺遠江守(輝道)に宛てた書状には「御郡内御造作出来不及申候。是以庄中之所行ニ候事無其隠候。無御由断被廻智案、御郡長堅之御行司為専用候。(あなたの郡内で手間のかかる面倒なことが起きてしまい、加勢を求められなくなった。それは庄内での動きが原因であることは明らかである。油断することなく智案をめぐらして、郡内の平穏を長く保つよう専念してもらいたい。)・・・・・・・
・・」
との記載もあり、この時期 小野寺領内で庄内に関連した動き(叛乱・謀叛か?)があったようです。これが「油利・山北境合戦ノ事」のもとになった伝承なのかもしれませんが詳細はわかっていません。