贄の柵
秋田県大館市二井田字館
立地・構造
 贄の柵は比内盆地の中央部、犀川南岸の微高地に築かれた平城と推測されています。城の規模・構造等は不明ですが、往時 周囲は犀川の氾濫原に囲まれていたと推測され、柵は氾濫原を要害に取り立てて築かれたと思われます。(場所は明確ではありません)
歴史・沿革
 築城時期・築城主体ともに不明。平安期、比内を治めた河田氏の居館と伝えられます。河田氏の出自は不明、最後の当主河田次郎守継は奥州藤原氏に仕え、文治5(1189)年 藤原泰衡が鎌倉軍の侵攻を受けて平泉から逃れると泰衡を贄の柵に庇護しましたが、その後 泰衡を殺害して泰衡の首を陣ヶ岡まで進出した源頼朝の本陣に届けたとされます。しかし次郎守継は主人を討った不義を頼朝に咎められ斬罪に処せられました。天文年間(1532−55年)の『浅利則頼侍分限帳』(「佐藤文書」)には「御家老 新田村館主 川口安芸」と記されており、浅利氏時代 新田には新田館が構えられ、浅利氏の被官川口氏が居住していましたが新田館と贄の柵が同一のものかは不明。
贄の柵
メモ
奥州藤原氏の被官
河田氏の居館
形態
平城
別名
新田館・(しがらみ)の城
遺構
・・・・・・・・・
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成25(2013)年6月9日
贄の柵は現在の二井田地区にあったと思われる城館ですが・・・・・・・・・、場所は明確ではないようで、地区内に標柱と説明板が設置されているのみ。(写真左上・右上) 二井田地区は往時、犀川の氾濫原に浮かぶ微高地だったようで、現在も周囲の水田面より5mほど高くなっています。なお「贄の柵」は享和3(1803)年、この地を訪れた菅江真澄が名ずけたもので、真澄は泰衡を偲んで「たのみつる その木のもとも吹風の あらきにつゆの 身やけたれけむ」と歌を詠んでいます。