達城
福井県大飯郡おおい町尾内
立地・構造
 達城は小浜湾の南岸、佐分利川河口部右岸の独立丘陵(標高114m 比高110m)に築かれた山城で、南東から北西側に延びた稜線を城域としています。城の規模は東西50−100m×南北500mほど、城縄張りは最頂部に構築された主郭(大城)と北西側の稜線突端に築かれた小城(出丸)、両郭間の稜線尾根を加工した郭群からなり、全体としてシンプルな構造になっています。規模は主郭(大城)が東西30m×南北40m、小城が20−30m四方ほど、稜線に構築された郭群も幅10−15mほどと小規模なもので、導線を防御する性格があったと思われます。城郭遺構としては小城の背後(南側)に導線を狭める二重竪堀があり、また主郭(大城)の背後(南側)にも堀切が穿たれているようです。(未確認) 大手筋は北西麓から小城・北西側稜線を通り、主郭に繋がるルートが想定されます。全体的に規模は大きくまた要害性もあるものの、各平場の規模は小さく、基本的には短期間の避難所、あるいは物見的な性格を持つ城砦として利用されたと推測されます。
歴史・沿革
 達城は天文22(1553)年、若狭西部の国人領主本郷泰茂により築かれたとされます。本郷氏は承久年間(1219−21年)頃、若狭国大飯郡の新補地頭職に補任された鎌倉御家人で、その後 子孫は大飯郡本郷に土着して本郷氏を称したと伝えられます。南北朝期、本郷氏は北朝方に与し、また 将軍直轄の奉公衆となり勢力を広げました。しかし15世紀中期、幕府の権威が失墜すると本郷氏は若狭守護職武田氏に本領安堵を担保され、武田氏の支配下に組み込まれます。また大永4(1524)年、本郷氏の所領が幕府の御料所になると本郷氏の勢力は次第に衰退し、同じ西若狭衆の石山城主武藤氏にしばしば領内を侵略されました。このため天文22(1553)年、本郷治部少輔泰茂は有事の際の要害として達城を築いたと伝えられます。元亀元(1570)年4月、越前朝倉討伐に動いた織田信長は若狭に進出します。この際、本郷泰栄は信長の近習矢部家定の仲介でいち早く織田氏の支配下に入り、所領を安堵されました。しかし天正10(1582)年に勃発した「本能寺の変」後、本郷泰栄は羽柴秀吉方には与せず本郷から退去し、達城はほどなく廃城になったと思われます。
達城  北東側からの遠景
メモ
西若狭の国人 本郷氏の要害
形態
山城
別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・虎口・堀・土橋
場所
場所はココです
駐車場
城址西麓の某駐車場借用
訪城日
平成21(2009)年3月11日
達城は小浜湾に面した独立丘陵上に築かれた山城で、頂部ピークに構築された大城と北側突端に築かれた小城からなり(写真左上)、西麓には自然の濠をなした佐分利川が流れています。(写真右上) でっ、城へは北西麓の神社鳥居から小城を通って主郭まで登山道が設けられています。(写真左) でっ、小城は現在、長応寺の境内になっています。(写真左下) 規模は20−30m四方ほど、敷地内は建物で埋められています。城へは本堂の軒先を通らなければならないため、訪城の際は長応寺の方に一声かけたほうがよいかと思います。でっ、本堂の背後は7−8mの切岸になっていて、鞍部部分は二重竪堀で狭められた土橋で繋がっています。(写真右下)
小城から大城までは痩せた稜線で繋がり、緩斜面部分は小規模な段郭群で処理され(写真左上・右上)、登山道は一部 堀底道になっています。(写真右) 本来ならもっとキッチリ見たかったのですが・・・・・・・・、雨が本降りになってきたため、大城への道を急ぎました。大城の手前の斜面は急斜面になっているため削平地に加工はされていませんが、つずらおれに導線ルートが設定され、じきに虎口に辿り着きます。(写真左下) 写真ではわかりずらいですが、虎口の前面には「折れ」が見られます。主郭の規模は東西30m×南北40mほど、忠魂碑が建てられていました。(写真右下)