大森城
秋田県横手市(旧大森町)大森町字高口下水戸堤
立地・構造
 大森城は横手盆地の北西端、雄物川左岸の独立丘陵上(標高121m 比高90m)に築かれた山城です。城の規模は推定東西500m×南北400mほど、城縄張りは大きくは頂部に構築された主郭と主郭の南東側下に敷設された二の郭からなり、また主郭の周囲と南側斜面は段郭群に加工されています。規模は主郭が東西120m×南北60m、二の郭が東西50m×南北60mほど。大手筋は南麓から二の郭⇒主郭に繋がるルートか?。同地は横手盆地を一望にできる要地に位置します。

大森城概念図
 大森城は『小野寺正系図』等によると文明年間(1469−87年)、横手城主小野寺泰道の四男長門守道高により築かれたとされます。15世紀初期頃、小野寺泰道は平鹿郡に進出して沼館を拠点としましたが、同じ頃 奥羽山脈を越えて仙北郡に進出した南部氏(根城南部氏説が有力)と対峙します。抗争は当初 南部氏の優勢で終始し、小野寺氏は一時 南部氏の支配下に置かれましたが、寛正・応仁年間(1461−68年) 小野寺泰道は湊安東氏と結んで南部勢を仙北郡から駆逐しました。大森城はこの頃、領内の安定を図るため道高により築かれたと思われます。その後、天正年間(1573−92年)、小野寺輝道の三男孫五郎康道が大森城に入城して「大森殿」と呼ばれ、康道は天正14(1586)年の「有屋峠の戦」、天正16(1588)年の「峰の山の戦」等に小野寺軍の中枢として出陣したと伝えられます。天正18(1590)年の「奥州仕置」後、大森城には太閤検地のため上杉景勝・大谷吉継が入城し、大森城を太閤蔵入地の収納場所、刀狩で没収した武器の保管庫としました。同19(1591)年、上杉氏が出羽から撤収すると小野寺氏は最上氏との軋轢から軍事緊張が続き、慶長5(1600)年に勃発した「関ヶ原の戦」では反最上の立場から上杉氏とともに最上氏と対峙しました。しかし「関ヶ原の戦」が東軍の勝利で終結すると、小野寺領には最上・安東・戸沢・由利十二頭の諸勢が侵攻し、この際 大森城も出羽衆の攻撃を受けます。「大森城の戦」は和睦により終結しましたが、同6(1601)年 小野寺氏は改易となり、康道は横手城主小野寺義道とともに石見国津和野に配流となりました。大森城はこの際、廃城になったとされます。 
歴史・沿革
大森城  主郭
メモ
小野寺氏の支城
形態
山城
別名
岩淵城
遺構
郭(平場)
場所
場所はココです
駐車場
大森公園駐車場
訪城日
平成16(2004)年11月6日
平成25(2013)年6月14日
大森城は雄物川の西岸、大森市街地背後(北側)の丘陵上に築かれた山城で、現在は大森公園となっています。(写真左上ー南西側からの遠景) でっ、南西麓の車道沿いに大森神社の鳥居が建てられていて、ここから参道が設けられています。(写真右上) また南西側の中腹には駐車場が設けられていて、ここには説明板が設置され、ま〜〜〜 ここから散策するのがよりベターでしょう。(写真左) 散策路は南側斜面に設けられていて、道に沿った南側斜面は不規則な帯状の郭に加工されています。(写真左下・右下) ただしどこまでが往時の遺構かは不明、上部は往時の遺構と思うのですが・・・・・・・・・。
(写真左上) 主郭南西側下の郭、規模は幅10mほど、主郭側は3−4mの切岸に加工されています。
主郭(写真右上)
横手盆地を北西側から一望にできる高所に位置し、規模は東西120m×南北60mほど。現在は公園整備され、北東隅に大森神社が祀られています。(写真右) 周囲は高い切岸に加工され、下部には郭が設けられていたと思われますが・・・・・・・・・、公園整備による改変が酷く不明瞭になっています。(写真左下ー北側の切岸 写真右下ー東側)
(写真左上) 主郭南側の切岸
 
二の郭(写真右上・左)
主郭の南東側下に位置し、規模は東西50m×南北60mほど。南東側と南側に腰郭らしき平場が敷設されています。