前沢城
岩手県奥州市(旧前沢町)前沢区陣場
立地・構造
 前沢城は胆沢平野の南西部、北上川右岸の胆沢丘陵端部(比高40m)に築かれた平山城で、北から南側に張り出した丘陵部を堀切で分断して城域としています。城の規模は推定東西130m×南北350mほど、内部は堀切で分断した南北の2郭構造と推測されています。このうち南側の郭が主郭に想定され、規模は東西70−80m×南北150−160ほど、北側の郭は堀が消滅しているため不明。現在、城址は公園整備等で相当改変され、遺構は消滅しています。
歴史・沿革
 築城時期は不明。城主三田氏は鎌倉期、陸奥国に入部した葛西氏の重臣柏山氏に同道した三田将監を祖とし、入部後 将監は前沢に給地を宛がわれたと伝えられます。三田氏の史料上の初見は応永7(1400)年の「宇都宮氏広の乱」に三田丹波守高盈が葛西方として参陣したのが最初で、高盈以後 三田氏は重道・重国・重恒・重近・重明・義広・義勝と続きます。天文11(1542)年、「天文伊達の乱」が勃発すると三田主計頭重明は主家柏山明吉(胆沢大林城主)が加担した伊達晴宗方で出陣し、葛西高信から感状を受けています。また重明のあとを継いだ刑部少輔義広は元亀2(1571)年、葛西晴信と大崎義隆が対峙すると葛西方で出陣し晴信から恩賞を受けています。天正年間(1573−92年)初期、柏山明吉が死去し嫡男明国が柏山家の家督を相続しましたが、家臣団の中には弟明宗を推す勢力が台頭し柏山家臣団は分裂します。この際、三田義広は明宗派に加担して内訌の収拾にあたり、明宗の家督相続に貢献しています。しかし天正16(1588)年、義広が主家柏山氏に謀反を企てているとの讒言から(三田氏が大崎氏に仕官したためとする説もあるようです)、前沢城は柏山勢の攻撃を受けて陥落し義広は自害しました。義広の三男義勝は和賀氏の重臣鬼柳氏(鹿島館主)を頼り落ち延び、のちに南部氏に仕官したとされます。 同18(1590)年の「奥州仕置」により胆沢郡は伊達領となり、前沢には小浜城主大内定綱が入封します。そして定綱は前沢城を破却して南麓に新たに居館を築き、城下町を整備しました。大内氏以降、前沢には伊達氏の被官成田氏・飯坂氏・三沢氏が順次居住し、明治維新まで続きました。
前沢城  主郭の城址碑
メモ
胆沢柏山氏の家老職
三田氏の館城
形態
平山城
 別名
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遺構
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場所
場所はココです
お物見公園
駐車場
公園駐車場あり
訪城日
平成20(2008)年10月24日
前沢城は前沢市街地西側の丘陵上に築かれた平山城で、北から南側に張り出した半島状の丘陵地に選地されています。(写真左上ー東側からの遠景) 現在、城址内部は「お物見公園」として整備されていて、簡単にアプローチできますが、相当 改変されているため遺構等は見られません。(写真右上ー内部) ま〜〜〜、もしかしたら東側から公園に入る道が南郭(主郭)・北郭(副郭)を画した堀を踏襲したものか?。(写真左) また南郭の西側縁部には土塁らしきものもあり、現在は遊歩道になっていますが、ま〜〜〜、ハッキリしません。(写真左下)
(写真右下) 南郭の城址碑
大内定綱が前沢城を破却して築いた居館は現在、前沢小学校の校地になっています。(写真左上) このため遺構等は残っていませんが、こんな感じで建物が配置されていたようです。規模は東西200m×南北110mほど、前面(東側)は3mの段差で広小路に繋がり(写真右上・右)、中央に表門が建てられています。(写真左下ー現在の表門は後に移築され、その後 現在地に戻したもの) なお広小路には濠があったようですが、現在はありません。また南側には裏小路なる小路が残っています。(写真右下)
城山の東麓には旧奥州街道が南北に通り、前沢宿が構えられていました。(写真左上) 現在では宿場町の面影は見られませんが、メインストリートに入る南・北には鍵折れの桝形が設けられ、それらしい雰囲気があります。(写真右上ー北側の七日町桝形 写真左ー南側の五十人町桝形)