六郷城
秋田県仙北郡美郷町(旧六郷町)六郷古館
立地・構造
 六郷城は仙北平野の南東部、六郷地区西側の扇状地形扇端の微高地に築かれた平城です。城の規模は推定東西300m×南北200mほど、周囲を濠(堀)で囲った東西2郭の複郭構造の平城だったと推測され、主郭の東側に内濠を挟んで二の郭を配し、主郭・二の郭を外濠で囲郭する単調な構造だったと思われます。菅江真澄の『月の出羽路』には「古城は往還の北、壺館街道の北の方に中りて六郷三ケ村の中央に在り、六郷兵庫頭正乗の古城にして、・・・・・・・・
・、本麿、二の麿、追手、搦手の形、田昌と成りて見ゆ、二重堀の跡も田地と成りて耕ぬ。」
と記されています。六郷城は仙北平野では最大規模の平城ですが、現在 城址の大部分は開墾等により改変され遺構等は消滅し、主郭の北東部に田岡稲荷が祀られ公園化されているのみ。

 六郷城は永禄年間(1558−69年)頃、六郷(二階堂)道行により築かれたと伝えられます。六郷氏は鎌倉期にこの地の地頭職として入部した二階堂氏の庶流とされ、戦国期には「六郷衆」を組織して仙北平野の南東部に勢力をもつ有力

現地説明板の図(菅江真澄『月の出羽路』より)
国人に成長しました。しかし同地は戸沢領と小野寺領に挟まれていたため六郷氏は「境目の領主」として勢力の保持に腐心しましたが、天正18(1590)年 道行の子兵庫頭政乗は豊臣秀吉の「小田原の陣」に参陣し、所領を安堵(4500石)され豊臣政権下の安全保障の傘の下に入りました。慶長5(1600)年、「関ヶ原の戦」が勃発すると政乗は東軍に加担して西軍の横手城主小野寺義道を攻撃しています。戦後、政乗は佐竹氏の秋田転封のあおりを受けて常陸国府中に国替となり、代わって六郷には佐竹義宣の父義重が入城し、城下町の整備等を施しましたが、ほどなく六郷城は廃城となりました。
歴史・沿革
 仙北平野の南東部、奥羽山脈の西麓に六郷と呼ばれる町があります。中世この地を支配していた国人は六郷氏と呼ばれる氏族で、中世奥羽を席捲した戦国大名・領主の中で近世大名として明治維新まで続いた数少ない一族です。しかし全国的には無名ですし、また派手な軍事行動を起こしたわけでもなく、どちらかといえばバイプレーヤー的存在のように思われます。六郷氏の出自については鎌倉御家人二階堂氏を祖とする庶流と推測されています。二階堂氏は藤原南家を祖とし、文治5(1189)年の「奥州藤原攻め」や鎌倉幕府の設立に参画した工藤行政が鎌倉の永福寺周辺に屋敷を構えていたことから二階堂氏を称したとされる鎌倉御家人です。この二階堂氏は奥州征伐後、各地に所領を宛がわれ、その一部が六郷周辺(当時の山本郡)だったと推測されます。ただし二階堂氏嫡流が入部し支配したとは考えられず、一族あるいは郎党を派遣して代官管理していたのでしょう。でっ、この代官として派遣された人物が六郷氏の祖だったようです。また『吾妻鏡』には山本郡(現在の仙北郡)の地頭職として二階堂氏の名が見当たらないことから、南北朝期に入部したことも想定されます。室町期の六郷氏の動向・事績は不明で、天正5(1577)年に二階堂道行が永泉寺に涅槃像を寄進したことを記した『永泉寺什物涅槃像事』「大旦那藤原朝臣二階堂弾正忠道行」と記されたのが二階堂氏の初見とされます。ま
た六郷城が築かれたのは永禄年間(1558−69年)とされていますが、それ以前の居住地もわかっていません。でっ、戦国期の六郷氏ですが置かれた環境は厳しいものだったようです。北に角館城主戸沢氏、南には横手城主小野寺氏と強国に挟まれた「緩衝地」に位置する在地領主として、周辺の本堂氏・前田氏・金沢氏などとともに強国に依存した行動をとったようです。またこのことが六郷氏にとって近世大名に繋がる処世術を得ることになったとも考えられます。また六郷氏にとって幸運だったのは、小野寺氏・戸沢氏がともに対峙しながらも、小野寺氏は南の最上氏と、戸沢氏は北の安東氏と常に軍事緊張下にあったこと。いずれにせよ六郷氏は自身の存在意義を理解し、あまり目立たずまた小気味よく行動していたのでしょう。天正14(1586)年、六郷政乗は小野寺軍に加担して最上領に侵攻(「有屋峠の戦」)、また同17(1589)
旧羽州街道

寺町界隈
年の「湊騒動」では檜山安東実季に味方して出陣、またこの間 小野寺氏とも交戦するなど縦横無尽に行動しています。ただこの一連の軍事行動は領地拡大が目的ではなく、自領維持を目的としたものだったようです。でっ、六郷氏の軍事行動を支えたのは、飯詰城主久米氏、神尾(町)氏、金沢氏等からな る「六郷衆」と呼ばれる地縁・血縁集団で南北朝期以降、他国では消滅した惣領制集団と推測されます。まった く古風な集団といえます。でっ、この六郷氏が独立した領主として認知されたのが天正18(1590)年の豊臣秀吉の「小田原の陣」に参陣したことによります。六郷政乗はその後の「奥州仕置」で所領を安堵され、豊臣政権という安全保障の下で独立領主として認知されました。慶長5(1600)年の「関が原の戦」で政乗はどっちつかずの立場でしたが、関が原で東軍が勝利を収めると上杉氏に与して最上氏と対峙していた小野寺
氏を積極的に攻撃し、戦後 常陸府中に一万石で移封しました。六郷氏はその 後、元和9(1623)年に出羽国由利郡に転じて本荘城を居城とし、明治維新を迎えました。六郷氏移封後の六郷城には秋田に転封してきた佐竹義宣の父義重が入城し、城郭の改修は不明ですが城下町を整備したと伝えられます。義重は旧羽州街道沿いに宿場・町屋を設け、その東縁に領内の26ヶ寺を集約して寺町をつくり有事の際の砦としましたが、六郷城は元和年間(1615−24年)の「一国一城令」により廃城となりました。その後は菅江真澄の『月の出羽路』(19世紀初期)で「古城は往還の北、壺館街道の北の方に中りて六郷三ケ村の中央に在り、六郷兵庫頭正乗の古城にして、−中略ー、本麿、二の麿、追手、搦手の形、田昌と成りて見ゆ、二重堀の跡も田地と成りて耕ぬ。」と記されているように耕作地として改変されたようです。現在
旧羽州街道の道標石
は主郭に推定される箇所に城址碑があるほかは、標柱で内濠・二の郭・外濠が表示されていますが、範囲は不明瞭になっています。城域は推定で東西500−600m×南北150−200mと広大なもの、主郭・二の郭は二重濠で仕切られ、北・西側は湿地帯だったと推測されます。一般的に中世の平城は単郭の方形館から進化した輪郭式の城郭が主流ですが六郷城は連郭式の平城だったようです。当地は奥羽山脈の伏流水が各所で湧水していることから、水濠を含む湿地帯を自然の要害に取り立てて六郷城は構築されていたのでしょう。
六郷城 主郭の城址碑(佐竹公館ノ碑)
メモ
「六郷衆」の筆頭 六郷氏の館城
形態
平城
別名
・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・濠祉
場所
場所はココです
駐車場
サテライト六郷の駐車場借用
訪城日
平成18(2006)年8月10日
平成19(2007)年7月11日
六郷城は六郷市街地西方の水田の中にヒッソリと残っています。(写真左上ー北東側からの遠景) 近く(南側)にサテライト六郷があって、これを目印にアプローチすると場所はすぐに特定できます。とはいっても改変がひどく残っているのは主郭の一部分のみ。(写真右上) たぶん主郭の北東部と思われ、ここには正一位田岡稲荷が祀られ(写真左)、城址碑(佐竹公館ノ碑)が建てられています。(写真左下) また神社鳥居の脇には「柳清水」と呼ばれる湧水があり、この湧水を利用して濠にしていたのでしょう。でっ、主郭の東側には二の郭と仕切った「六郷城内濠祉」があったようです。(写真右下) 内濠の規模は不明。
二の郭は主郭の東側に設けられていたようですが、改変がひどく規模・範囲は不明瞭になっています。(写真左上) でっ、主郭・二の郭を囲った外濠も不明瞭ですが、若干 低くなっている部分がそれにあたるのでしょう。(写真右上ー北側の外濠祉 写真右ー南側の外濠祉・表示板あり)
永泉寺(写真左下)
六郷氏の菩提寺。天正5(1577)年、二階堂道行が涅槃像を寄進したとされ、『永泉寺什物涅槃像事』には「大旦那藤原朝臣二階堂弾正忠道行」と記されているようです。
諏訪神社(写真右下)
中世、六郷総鎮守として崇拝され、六郷氏が厚く庇護したとされます。