亀 ヶ 崎 城
山形県酒田市亀ヶ崎
立地・構造
 亀ヶ崎城は庄内平野の北西部、最上川河口部の東岸、最上川と新井田川の合流部に隣接した微高地に築かれた平城で、主郭、二の郭の中枢部と三の郭外郭からなります。規模は推定 東西450m×南北500mほど、城縄張りは中枢部の主郭、二の郭を城域の中央北側に南北に並列式に配置し、中枢部の東ー南ー西側に三の郭を配した梯郭式縄張りが採用され、中枢部と三の郭は内濠で仕切られていました。さらに三の郭の外側には外郭が設けられていたようです。現在、城址は酒田東高校の建設、一般の宅地化等により遺構は消滅し、規模も不明瞭になっていますが、主郭、二の郭と想定される酒田東高校校内の北側には高さ2−3mの土塁が残存しています。また市内吉田の円通寺には三の郭の搦手門と伝えられる門が移築されています。同地は最上川と新井田川の合流地に近く、往時は氾濫原
を自然の濠とした要害だったと思われます。

 鎌倉期、庄内の地頭職として入部した武藤(大宝寺)氏は、室町期には大宝寺城を拠点に庄内全域に勢力を拡大しました。しかし室町末期には武藤氏庶子家の砂越氏や家臣の叛乱をたびたび受けるようになり、文明10(1478)年 最上川河口部に河北の支配拠点として東禅寺城を築いたとされます。永正9(1512)年、最上氏の支援を受けた砂越城主 砂越信濃守氏雄は大宝寺氏に対して謀反を起こし、東禅寺城を攻略して大宝寺氏を敗走させました。そして大宝寺氏は一旦 衰退しましたが、永禄12(1569)年 「悪屋形」出羽守義氏が大宝寺氏の家督を継承すると義氏は上杉謙信と同盟を結び、ふたたび庄内に勢力を広げ、さらに執拗に庄内侵入を図る最上義光に対抗するため織田信長とも誼を結びました。天正11(1583)年、大宝寺氏の被官 前森蔵人は義氏の度重なる外征政策に反発し、山形城主 最上出羽守義光の支援を受けて謀反を起こして義氏を自害に追い込みました。義氏の死後、前森蔵人は東禅寺城に入り東禅寺筑前守義長と称します。一方、大宝寺氏は義氏の弟 兵庫頭義興が家督を継ぎ、本庄越前守繁長の次子 出羽守義勝を養子として迎えて越後との同盟関係を堅固なものとしました。天正13(1585)年、義興が最上方の清水城を攻撃したことを発端に両軍は戦闘状態に入り、翌14(1586)年 最上軍は庄内に侵攻して飽海郡を制圧しました。そして伊達政宗の仲介により両軍は一旦 和睦しましたが、同15(1587)年 「新発田重家の乱」で本庄繁長が動けない隙を衝いて最上軍は庄内に侵攻し、東禅寺勢と合流して尾浦城を攻撃して義興を自害に追い込みました。そして庄内を制圧した義光は東禅寺義長に庄内の仕置を任せ、長崎城主 中山玄蕃頭を目付として尾浦城に入れました。同16(1588)年、本庄繁長は庄内奪還のため庄内に派兵し、「十五里ヶ原の戦」で最上・東禅寺軍を撃破しました。そして この戦により東禅寺義長と弟の右馬頭勝正は討死にし、庄内は上杉氏の支配下に入り、本庄繁長、義勝父子が統治することとなりました。そして東禅寺城へは繁長が入りましたが、同19(1591)年 検地に反対する一揆を煽動した嫌疑により繁長、義勝父子は流罪となり、東禅寺城へは上杉氏の被官(「上杉二十五将」) 甘糟景継、志駄修理亮義秀が城将として入城しました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」時、最上氏は上杉軍の攻撃を受けましたが、本戦が東軍の勝利で終結したため上杉軍は最上領から撤退します。そして義光は上杉氏の支配する庄内に侵攻し、志駄義秀の守備する東禅寺城を攻略、庄内制圧に成功しました。そして「関ヶ原」後の論功行賞により最上氏は庄内、由利郡に所領を加増され、東禅寺城には志村伊豆守光安が配され城名は亀ヶ崎城に改称されました。その後、最上氏は元和8(1622)年 お家騒動(「最上騒動」)により改易となり、庄内には徳川譜代の酒井宮内大輔忠勝が入封します。そして忠勝は鶴ヶ岡城を居城とし、亀ヶ崎城には城代を置いて酒田港、川北を統治させ、「明治維新」まで存続しました。
歴史・沿革
亀ヶ崎城 移築された三の丸搦手門
メモ
中世 ー 大宝寺氏の支城
近世 ー 庄内酒井藩の支城
形態
平城
別名
 東禅寺城・酒田城
遺構
土塁・濠祉・移築城門
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成20(2008)年7月17日
亀ヶ崎城は酒田市街地の中央部、新井田川左岸の微高地に築かれた平城です。(写真左上) 城は新井田川を北の外濠とし、また西ー南ー東側にも濠を設けて外郭ラインを形成していたようです。(写真右上ー東側の濠祉) 現在、主郭部分は酒田東高校の校地、周辺は宅地化により遺構の大部分は消滅し、唯一 確認できるのが北側の土塁になります。(写真左・左下) 土塁の規模は幅5−6m×高さ2−3mほど。
円通寺山門(写真右下)
市内吉田の円通寺山門は亀ヶ崎城三の郭の搦手門と伝えられます。説明板によると明治年、亀ヶ崎城が破却された際、檀家が寄進したものとか。
秋田の中世を歩く