三 条 嶋 ノ 城
新潟県三条市下須頃
立地・構造
 三条嶋ノ城は蒲原平野の南東部、信濃川と五十嵐川の合流地に中州(中の島)状に形成された自然堤防上に築かれた平城です。周囲は信濃川・五十嵐川の氾濫原に囲まれていたと推測されますが、遺構はすべて消滅し、規模・構造等は不明。五十嵐川に面した旧三条競馬場周辺が城址と推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には平安期、三条左衛門により築かれ、「前九年の役」(1051−62年)後 安倍貞任の郎党 黒鳥兵衛より攻め落とされたと伝えられます。また南北朝期には南朝勢力に加担した池氏の拠点と伝わります。室町期、上杉氏が越後国守護職に任ぜられると領国の政務は守護代 長尾氏が事実上執行し 蒲原郡代を兼務しました。そして長尾氏は三条嶋ノ城を拠点として三条長尾氏を称し、筑前守高景の代に府中に移ったとされます。その後、三条長尾氏の蒲原郡管轄権は被官の山吉氏が継承し、山吉氏は三条嶋ノ城を拠点に蒲原・瀬波郡の仕置きを担当しました。そしてこの頃、越後は鎌倉府に近いことから鎌倉府に影響を受けることが多く、親幕府派の守護職に対して守護代は親鎌倉府という政治状況を発生させます。応永30(1423)年、幕府と鎌倉公方の対立が顕著になると、守護職 上杉房朝は守護代 長尾邦景配下の山吉久盛の三条嶋ノ城を、揚北の国人衆(中条房資・黒川基実・加治氏・新発田氏)に命じて攻撃しています。しかしこの戦は包囲軍で離反者が続出して和睦となり、さらに同33(1426)年にも三条嶋ノ城は守護方に包囲されましたが、この時も離反者が出て戦闘は終結しています。宝徳20(1450)年、越後に帰国した守護職 上杉房定は専横を振るっていた守護代 長尾邦景勢力を排除し、守護権力の強化を図ります。この間、山吉氏は三条郡司として権限を保持し続け、蒲原郡に強固な基盤を築きました。永正4(1507)年、守護代 長尾為景は上杉定実を擁して守護職 上杉房能を攻撃して自害に追い込みます。このため同7(1510)年、関東管領 上杉顕定(房能の兄)が越後侵攻を開始して府中を制圧し、為景・定実を越中に追い落としました。しかし体制を立て直した為景は蒲原津に上陸し、顕定軍を敗走させて「長森原の戦」で顕定を討死にさせました。この間、三条嶋ノ城主 山吉政久は本成寺勢力とともに、終始 為景方に加担して守護・管領軍と戦い、享禄3(1530)年に勃発した「上条の乱」でも山吉政盛は為景方に与しています。天文15(1546)年、黒滝城主 黒田秀忠の謀反を制圧した長尾景虎(後の上杉謙信)が出現すると、守護代 晴景と対立していた中条・山吉・高梨氏等は景虎を守護代にする動きを画策します。景虎が守護代を継承すると山吉政応・豊守は景虎の側近として奏者をつとめ、信濃・関東・北陸方面との外交を担当し、永禄13(1570)年には「越相同盟」を締結させました。しかし豊守が天正5(1577)年 嗣子がなく死去すると、家督は弟 景長が継いだものの上杉家の家法により領地は半減され木場城に移され、三条嶋ノ城には神余親綱が入城しました。天正6(1578)年、上杉謙信が死去し「御館の乱」が勃発すると神余親綱は木場城主 山吉景長、栃尾城主 本庄秀綱とともに三郎景虎方に加担して、喜平次景勝方の黒滝城を攻撃します。そして同7(1579)年、御館が景勝勢に攻略され、景虎が鮫ヶ尾城で自害した後も親綱は景勝に抵抗を続けました。同8(1580)年、景勝自らが出陣するものの三条嶋ノ城栃尾城は陥落せず、一旦は和議を申し出るも決裂し、同年 山吉景長は三条嶋ノ城内の旧臣に内応を誘い、親綱を自害に追い込んで三条嶋ノ城を陥落させました。戦後、三条嶋ノ城には上田衆の甘粕長重が城代として置かれ、同9(1581)年に勃発した「新発田重家の乱」では景勝方の中継拠点として機能しました。慶長3(1598)年、上杉景勝の会津転封後は堀直清が入城し、同5(1600)年の「関が原」の際 越後で勃発した「上杉遣民一揆」を鎮圧しました。しかし同15(1610)年、僧侶殺害の件で堀直清家は改易となり三条嶋ノ城は一旦 廃城になります。そして元和2(1616)年、市橋下総守長勝が三条嶋ノ城主となりましたが、長勝は信濃川東岸に新たに新城を築くものの、同6(1620)年 改易となり、代わって三条には稲垣摂津守重綱が越後国藤井から入封しましたが、寛永19(1642)年 幕府の命により三条嶋ノ城は廃城となりました。
歴史・沿革
三条嶋ノ城 城址碑
メモ
三条長尾氏の被官
蒲原郡司山吉氏の館城
形態
平城
別名
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遺構
移築城門
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)9月30日
三条嶋ノ城は蒲原平野の中央部、信濃川の氾濫原の自然堤防上に築かれた平城で、往時は信濃川を自然の濠とした要害だったと思われます。城址は三条市街地の西側、旧三条競馬場周辺にあったと推測されていますが、明確な遺構等は見られず(写真左上・右上)、北側の道路沿いに城址碑が建てられています。(写真左) なお周辺には近世、開発されたと思われる「新田」地名が多く残っていますが、中世には開発のままならない湿地帯だったのでしょう。
ー 本  成  寺 ー
本成寺は永仁5(1294)年に創建された法華宗(陣門流)の総本山で、中世には多数の僧兵を抱えた一大軍事勢力でした。そして永正4(1507)年から始まる慢性的な越後内乱では、三条嶋ノ城主山吉氏とともに終始、守護代長尾為景に与していたと伝えられます。現在の本成寺境内は150m四方ほど、南東側には濠が残っており、中世には周囲を濠で囲っていたと思われます。なお三条嶋ノ城の城門が本成寺に移築されているようですが ・・・・・・・・・、どれが移築城門なのかは不詳。
(写真左上) 本堂
 
(写真右上) 南惣門
 
(写真左) 南門
 
(写真左下) 鐘楼堂
 
(写真右下) 南東側の濠
 
 千仏堂 東外門