鳥 坂 城
新潟県胎内市(旧中条町)羽黒・白鳥山
立地・構造
 鳥坂城は櫛形山脈の北端白鳥山(標高298m 比高260m)から南西方向に延びた主尾根に築かれた山城で、急峻な断崖上の痩せ尾根を堀切で分断して郭を配置した単純な直線連郭式縄張りの城郭です。主郭は南端の郭で規模は25-30m四方ほど、主郭から北側尾根に二の郭・三の郭・四の郭・五の郭と4郭が配置されています。規模的にはどの郭も小規模なものですが、短期の籠城には耐えられるようです。各郭は竪堀をともなった堀切で分断され、特に「五の堀」と呼ばれる搦手の堀切は幅7-8m・深さ6-7mほどで巨大な堀切です。大手筋は南西麓の中条東館からのルートが想定され、中腹部には大手筋を守備すべく段郭群が構えられ主郭に繋がっています。また白鳥山から北東側尾根ピークの鳥坂山(標高438m)には古い時代の鳥坂古城が構えられていたと伝えられます。

 築城時期・築城主体ともに不明。伝承によると治承4(1180)年、越後守に任ぜられた城資永が有事の際の要害として取り立てたとも。『吾妻鏡』の建仁元(1201)年五月十四日の条には「城の小太郎資盛、・・・・・・・・・、城郭を越後の国 鳥坂に構う」との記述があり、城資永の嫡子 資盛が鎌倉幕府に反旗を翻した「建仁の乱」の際、資盛が鳥坂城に籠って幕府軍と対峙したのが鳥坂城の史料上の初見とされます。その後、和田義盛の弟 義茂が越後国奥山荘の地頭職に任ぜられ、奥山荘に入部した孫の三浦時茂の代までに江上館を平時の居館とし、鳥坂城を有事の際の「詰城」として取り立てたものと推測されています。『中条家文書』には南北朝期の観応年間(1350-52年)頃、中条(三浦)茂資が鶏冠城鳥坂城か?)に籠ったことが記され、また享徳2(1453)年の条には中条房資により鶏冠要害鳥坂城か?)が改修再興されたことが記されています。室町期以降、中条氏は同族の黒川氏との領地争いが頻発し、天正6(1578)年に勃発した「御館の乱」では喜平次景勝方に加担した中条越前守景泰と三郎景虎方に加担した黒川備前守清実は対峙し、鳥坂城は黒川勢の攻撃を受けて落城したと伝えられます。同10(1582)年、魚津城の戦」で景泰が討死にすると嫡子 一黒丸(後の三盛)が中条家の家督を継承し、慶長3(1598)年 三盛は上杉景勝の会津転封に同道して鮎貝城に移りました。この際、鳥坂城は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
鳥坂城 「五の堀」
メモ
下越の有力国人 中条氏の要害
別名
鶏冠要害・白鳥城
形態
山城
遺構
郭(平場)・土塁・堀・石積?
場所
場所はココです
駐車場
登り口に駐車場あり
訪城日
平成16(2004)年 5月25日
平成19(2007)年10月 2日
鳥坂城は胎内川の左岸、櫛形山脈北端の白鳥山に築かれた山城で、細長い尾根を城域としています。(写真左上) 山麓部分の丘陵上には鳥坂城に付随した施設と思われる「根小屋」(中条東館)や段丘崖縁部に選地した羽黒館があります。(写真右上・左) 鳥坂城へは「根小屋」(中条東館)からの大手筋?(宮の入コースや白鳥コース(写真左下 登り口)と呼ばれる登山道が整備されていますが、ま ~~~ どちらのコースを選択しても相当ツライ登山になります。管理人は両方のルートを登りましたが、どちらもキツク 白鳥コースは沢をつたうルートになっています。(写真右下)
登山道を登り詰めると どちらのルートを選択しても南側中腹の平場で合流します。(写真左上) でっ、中腹の平場からさらに登ると前衛陣地と思われる郭群(写真右上)を経て城域南端の主郭に辿り着きます。(写真右) 主郭の規模は25-30m四方ほどの方形郭、現在は城址碑や東屋が建てられています。ここからは中条氏が支配した「中世 奥山荘」を一望にできます。(写真左下) でっ、主郭・二の郭間は幅5-6m・深さ3-4mの「一の堀」で仕切られています。(写真右下)
鳥坂城の縄張りは南北に延びた痩せ尾根を堀切で分断した5郭からなるシンプルなものです。郭自体はどれも小規模なもので、藪が酷く削平状況はよくわかりませんが、自然地形で使用していたのかも。(写真左上ー三の郭) 堀切はどれも竪堀をともなったもので、部分的に石積らしきものも見られます。(写真右上ー「三の堀」) また白鳥山に繋がる搦手の尾根筋を断ち切った「五の堀」は幅7-8m・深さ6-7mほど。(写真左) 「五の堀」に隣接した五の郭は痩せ尾根がL字状に曲折した郭(通路?)で、搦手を防御する変形の桝形構造と捉えることもできるようです。
ー 羽  黒  館 ー
鳥坂城の南西麓、羽黒地区背後の段丘崖縁部(比高20m)に築かれた館城で、規模は東西25-50m×南北270mほど。(写真左上) 内部は堀で区画された3郭からなるようです。中央に位置する主郭は東西25-50m×南北170mほど(写真左下)、内部は耕作地に改変されていますが堀の痕跡が部分的に見られます。(写真右下) 北側の徳岩寺との間には堀と思われる部分に車道が敷設され(写真左)、また南側は高さ2-3mの段差(切岸か?)になっていて、往時は堀があったと想定されます。(写真右上)  (場所はココです)
羽黒館で最も遺構が明瞭な部分は羽黒三社が祀られている南端の郭です。(写真左上) 規模は東西35m×南北30mほど、西側縁部には部分的に高さ1mの土塁が残存し(写真右上)、北側の主郭と隣接した部分には幅10mの堀が明瞭に残存しています。(写真右)