明利又城
秋田県北秋田市七日市
立地・構造
 明利又城は米代川の支流小猿部川の上流、羽立集落北側に突き出した尾根先端(標高272m 比高120m)に位置する山城で、頂部を主郭に北側には2段の小郭と二の郭が、南側には4−5段の段郭が配置され、南側の丘陵基部は自然地形を利用した2本の空堀で区画されています。城域は狭く居住性が感じられないことから、有事の際の「詰の城」と考えられます。  (明利又城図
歴史・沿革
 築城時期は不明ですが、城主は中世比内郡を支配した浅利氏と考えられます。甲斐源氏浅利氏は文治5(1189)年に奥州藤原攻めの功績から、源頼朝から奥州比内郡の地頭職を給されます。この時浅利氏は代官支配をしたようですが、鎌倉中期に庶流が比内郡に入部し土着したのが比内浅利氏と考えられます。浅利氏は南北朝期には北朝方に属し、南朝方の南部氏・鹿角成田氏等と戦い、次第に比内郡を支配するようになったようです。その後の浅利氏の動向は不明ですが、戦国中期に浅利則頼が現れ、浅利氏の勢力を拡大させました。則頼について『独鈷村旧記』では天文年間(1532−55)に甲斐から明利又城に移住し、後に独鈷城を築き比内を支配したとされ、また『長崎氏旧記』では、永正15(1518)年に津軽から比内に移住し、当初は明利又に居住していたが独鈷城を築き、比内盆地に進出したとされています。詳細は不明ですが、浅利則頼は外部から明利又に移住し、後に比内盆地(大館盆地)に進出し独鈷城を本拠に比内平野の支配を確立したとされます。羽立集落の東端に嘉吉年間(1441−44)の記年銘のある墓碑が五基あり、浅利氏の墓碑とされます。浅利氏は室町期に、なんらかの事情でこの小谷を地盤としていたのでしょう。
 明利又城のある小猿部川上流域は小谷の奥に位置する辺鄙な場所です。これは今も昔も変わらないと思われます。比内の地頭職が本拠として居城(居館)を置くべき場所ではありません。浅利氏がなぜこの地に押し込まれたのかは不明ですが、なんらかの事情で比内を放棄したと考えられます。ここで浅利氏は貝が蓋を閉めとじこもるように、戦国期に浅利則頼が現れるまで、この地で細々と生きながらえていたのでしょう。小猿部川上流の沢を詰めていくと比内盆地に行き着けます。浅利氏は明利又城から独鈷城までの15kmの距離を進むのに、約150年の歳月を費やしたと考えると、気の遠くなる思いがします。また明利又城のある小谷が自然の要塞として浅利氏を150年間守ったとも言えるでしょう。
明利又城  遠景
メモ
浅利氏の一時的な拠点(?)
形態
山城
別名
・・・・・ 
遺構
郭・櫓台?・堀・畝状竪堀
場所
場所はココです
駐車場
羽立集落内の農業施設
の駐車場を借用
訪城日
平成16(2004)年8月28日
平成18(2006)年12月15日
小猿部川
明利又城の北麓を西流し、自然の外濠と考えられます。
北麓の居館祉?
明利又城の北麓には高さ4−5mの段丘崖で区画された高台があります。ここには浅利氏の居館が想定され、北側の尾根道を通って二の郭と繋がっていたようです。
明利又城近景
城北西麓から見上げたところです。城の東・西側斜面は急峻な断崖となっています。
西側登り口
松沢林道をしばらく進むと明利又城の登り口案内板があります。山道は南西側斜面から搦手(南側)方向に進みます。
自然の堀
明利又城の南側は自然地形を利用した堀が2本配置されています。写真は竪堀状に沢が発達した2本目の堀です。
自然の堀
主郭南側の鞍部には1本目の堀があります。ここには北西方面から沢が発達しています。
尾根道
1本目の堀の西縁には土塁状の尾根道(搦手道)があり、堀切が確認できます。
主郭南側
主郭南側の急斜面には4−5段の段郭が削平されています。郭は扇状に南側に広がっています。
主郭切岸
主郭南側には4−5mの切岸が普請され、下には小郭が配置されています。
畝状竪堀
主郭北東側斜面には4−5条の小規模な竪堀群が確認できます。ここは南側鞍部が広がっており、比較的緩斜面だったようです。
主郭
主郭は痩せ尾根を削平した細長い郭です。中央西側には櫓台と思われる土壇があります。
段郭 
主郭北側は小郭2段を挟んで二の郭になります。主郭・二の郭間は比高10−15mほどあります。
二の郭
二の郭は城域北端に位置し、物見の機能があったと考えられます。ここから北西側斜面は大手と想定され、北麓の居館と繋がっていたようです。
浅利氏墓碑群
明利又城の北側には嘉吉年間(1441−44)記年銘の墓碑があり、浅利氏の墓碑と推測されます。
小猿部川流域
明利又城のある羽立・明利又地区は小猿部川上流の小谷にあり、北東側の山を越えると比内盆地になります。浅利氏は戦国期までこの小谷に「やどかりが蓋をしめ」るが如く閉じこもっていたようです。