浅利氏の墓碑群
秋田県北秋田市(旧鷹巣町)七日市字明利又
歴史・沿革
 「浅利氏の墓碑群」は小猿部川の上流部、明利又地区に残る七基の墓碑群で、墓碑はもともと十三基あったとされます。文化2(1805)年8月、この地を訪れた本草学者菅江真澄はこれを浅利氏の墓碑と推測し、その一基に「嘉吉」(1441−44年)の年号が読み取れることを美香弊乃誉路
(みかべのよろい)に記しています。

 実際のところ、この地になぜ 浅利氏が居住していたのか不明です。浅利氏はもともと甲斐源氏の一族で、鎌倉初期 比内郡の地頭職に補任され、すくなくとも鎌倉末期頃までに庶流が比内に下向して土着したと

現地説明板の図(菅江真澄著)
思われます。南北朝期の浅利氏の当主と思われるのは六郎四朗清連という人物。この人物は建武政権が津軽の北条残党を討伐した『津軽降人交名注進状』(建武元 1334年)や浅利氏が根城南部氏と戦ったとされる『浅利清連注進状文』(建武3 1336年)に名が見られ、南北朝期には津軽曽我氏とともに北朝方に加担していたようです。しかしその後、浅利氏の消息は不明になり、断片的に残る史料では、嘉吉元(1441)年 比内徳子(独鈷)郷の浅利氏が由利に住む先達に依頼して那智に願文を奉じ、また長禄年間(1457−61年)の『円福寺書状』には「浅利氏云々」の記載が見られます。そして寛政6(1794)年に記された黒甜瑣語(こくてんさご)には「秋田郡荷上場村に梅林寺と云ふ古刹あり。延亨の頃、井戸を掘らんとせし時、地下より鐡物打の大(ひつぎ)を掘出しけり、・・・・・・・・・ 蓋の下に羽州扇田ノ住浅利勘兵衛則章 死する年十八歳 干時応仁戌子九月二十日と板に・・・・・・・・・ 」と記されていて、戦国初期に浅利則章なる人物が現れます。浅利則章の浅利家内での位置付はわかりませんが、勘兵衛を称し、また浅利の通字則を使用していることから浅利嫡流に近い人物だったのでしょう。またこれにより当時の浅利氏の勢力圏が荷上場まで及んでいたことがわかります。ちなみに荷上場には長享2(1488)年、安東政季が生害したと伝えられる糠野城(別名町館・館平城)があり、応仁の頃には浅利氏の被官額田(糠野か?)甲斐守が城主と伝えられます。また当時、この地が檜山安東氏領との「境目」だったのでしょう。次に現れるのが浅利中興の祖と称される浅利與市則頼(?−1550年)になります。『独鈷村旧記』によると則頼は天文年間(1532−55年)に甲斐国から明利又に移り住み、その後 独鈷に城を築いて比内を統一したとし、また『長崎氏旧記』には則頼は永正15(1518)年に津軽から明利又に移り、その後 比内に進出したと記されています。いずれにしても則頼は外部から明利又に移り住み、後に比内を領有したことになっています。がっ、常識的に考えてこのようなことは想定できず、則頼はなんらかの事情により明利又に押込められた浅利氏庶流の裔と捉えた方がわかりやすいかと思われます。現在、残る墓碑群は七基ですがもともと十三基あったとされます。墓碑が明利又浅利氏当主のほか、奥方・兄弟を含めたものと推測すると明利又浅利氏は4−5代・100−150年くらいのスパンで明利又に居住していたと思われ、逆算すると14世紀中ー15世紀初期頃から明利又にいたことになります。菅江真澄が一基の墓碑から「嘉吉」の年号を読み取ったこととも整合性があります。でっ、「嘉吉」銘の墓碑が明利又に建てられた頃、比内徳子の浅利氏は由利の先達に依頼して那智に願文を奉じていることから、明利又の浅利氏比内徳子の浅利氏は別の家系であると推測され、結論からいうと15世紀中期から16世紀初期頃 明利又浅利氏が徳子の浅利氏嫡流を降して浅利宗家を乗っ取り、則頼の代に比内を統一したと思われます。でっ、前記した浅利則章のことですが、則章を浅利嫡流の御曹司(嗣子)と想定すると、応仁年間(1467−68年)頃には浅利領内で内乱が勃発し、このため則章は徳子から荷上場に遁れ、ここで病死(毒殺?)したとも推測されます。いずれにしても則頼が比内を制圧後、 前浅利氏の史料は焚書され、則頼を正当化するため『独鈷村旧記』『長崎氏旧記』等が記されたのでしょう。どこにでもある話です。
 現在、明利又に行くには北秋田市の国道105号の七日市から小猿部川沿いに町道へ入り、かな〜〜〜り進むと松沢で桂瀬からの県道111号と合流します。でっ、ここまで小猿部川流域の谷幅は意外と広いのですが、ここから突き当りの明利又間は谷幅も狭く、両側には山が迫っています。ちなみに県道111号は比内側にもありますが明利又とは繋がっていません。(たぶん計画段階で建設を中止したのでしょう) 耕作地も当然 狭く、中世にはこれよりも狭かったろうし、また生産性も低かったと思われます。明利又浅利氏が何を経済基盤にしたのかは今もってわかっていませんが、鉱山資源を経済基盤としたとする説もあるようです。明利又地区には墓碑群のほか、浅利氏に関連したと思われる明利又城や浅利神社があります。  (場所はココです)
(写真左上・右上) 浅利氏の墓碑群
刻字は摩耗が激しく、まったく読めません。
(写真左) 小猿部川
小森から明利又までの小猿部川流域は広い平地がまったくなく、せまい谷底地形が延々と続きます。たぶん中世 この地はそれほど開墾されていなかったのではないかと思われます。もし開墾されていたとしても生産性は低かったでしょう。
(写真左下) 浅利神社
(写真右下) 明利又城
比較的規模は小さく、山頂に段郭群が見られるのみ。ま〜〜〜、有事の際の「避難城」なのでしょう。