清 川 神 社
山形県東田川郡庄内町(旧立川町)清川
 清川神社は昭和8(1933)年、正四位清川八郎を祭神として創建された神社です。清川八郎は天保元(1830)年、庄内清川村の郷士斎藤豪寿の長男としてして生まれ、18歳の時 江戸に出て学問を東条一堂に師事、剣を千葉周作の玄武館に学んで北辰一刀流の免許皆伝を得ました。その後、幕府の昌平黌で学んだ後、自ら神田三河町に清河塾を開設しました。安政7(1860)年に起きた「桜田門外の変」以降、倒幕・尊王攘夷思想を強め、同年 虎尾の会を結成。しかし翌文久元(1861)年、倒幕計画が幕府に知られると、江戸を離れて諸国をめぐり、各藩の尊王攘夷派の藩士と誼を通じます。その後、八郎は幕府政事総裁松平春嶽に「急務三策」を上書します。尊王攘夷派の動きに手を焼いていた幕府はこれを採用し、同3(1863)年2月 将軍家茂の上洛にあわせて浪士組が結成されると、八郎は浪士取締役に就任して京に向かいました。しかし八郎が尊王攘夷の建白書を朝廷に奉書したため、浪士組の動きに不安を抱いた幕府は浪士組を江戸に呼び戻します。そして江戸に戻った八郎は同年4月13日、麻布一の橋で幕府の刺客に襲われ討たれました。享年34歳。なお神社の境内には八郎の遺品を常設展示する清川八郎記念館が建てられ、また境内の御殿林は「戊辰の役」(1868年)の際の清川口古戦場祉です。  (場所はココです)
 清川神社
 清川神社
 清川八郎像
 御殿林
慶応4(1868)年4月、新政府軍は本合海を経て24日 土湯に上陸して清川腹巻岩を占拠すると、清川村を攻撃します。対する庄内藩は御殿林でこれに応戦し、新政府軍を撃退しました。この戦闘による被害は庄内藩 戦死者13名・負傷者18名、新政府軍 戦死者12名、負傷者50名。
 正岡子規の句碑
(ひぐらし)の二十五年も昔かな
 松尾芭蕉像
元禄2(1689)年6月3日(新暦7月19日)、新庄を離れた松尾芭蕉一向は本合海から舟に乗り、最上川を下って清川関所で上陸しました。舟下りの途中、芭蕉は「五月雨をあつめて早し最上川」と句を詠んだとされます。