柳 本 陣 屋
奈良県天理市柳本町
立地・構造
 柳本陣屋は奈良盆地の中央東部、龍王山(標高585m)西麓の微高地に築かれた平城構造の近世陣屋です。規模は東西280m×南北340mほど、陣屋政庁を中心に置き、その周囲に家臣団の屋敷を配置したシンプルな構造になっています。陣屋に繋がる虎口は北ー西ー南側に設けられ、このうち西門が大手門と想定されます。また陣屋の北西部に位置する黒塚古墳の周濠を濠として利用し、この面には石垣が構築されています。陣屋政庁の規模は東西120m×南北170mほど、内部には政庁・藩邸が置かれ、発掘調査から陣屋建設前の在地土豪の居館に関連した遺構が確認されています。なお藩邸は文政13(1830)年の火災焼失後、天保15(1844)年に再建され、柳本小学校の校舎として利用されましたが、昭和41(1966)年 橿原神宮に移築され、現在は橿原神宮文華殿として利用されています。

 慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦」で徳川方に加担した織田有楽斎(長益)は戦後、大和国と河内の国に3万石の所領を給されます。その後、長益は豊臣秀頼に仕えましたが、慶長20(1615)年の「大阪夏の陣」を前に大阪城から退去し、五男尚長に大和国で1万石を分知して尚長に柳本藩を立藩させました。そして柳本陣屋は元和2(1616)年に築城が開始され、寛永年間(1624−45年)に完成したとされます。文政13(1830)年、陣
クリックすると拡大します
現地説明板の図
屋は火事により全焼焼失しましたが、嘉永5(1852)年 城主格に任ぜられ、明治維新を迎えました。明治6(1873)年の太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」により廃城。
歴史・沿革
柳本陣屋 西側の石垣
メモ
柳本織田藩の政庁陣屋
形態
平城(近世陣屋)
別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・濠・石垣・移築城門・移築御殿
場所
場所はココです
駐車場
黒塚古墳の駐車場借用
訪城日
平成29(2017)年4月19日
柳本陣屋は黒塚古墳南東部の微高地に築かれた平城で(写真左上ー北西側の黒塚古墳からの遠景)、現在の柳本小学校の校地、黒塚古墳児童公園がその敷地にあたります。(写真右上ー柳本小学校 左ー黒塚古墳児童公園) 規模は東西120m×南北180mほど、東・西側に隣接した南北道路と南側の東西道路は往時のものをトレースしたものと思われ、西側の道路わきには濠祉が明確に確認できます。(写真左下ー西側の南北道路 写真右下ー東側の南北道路) また以上の道路沿いには陣屋・政庁を囲うように家臣団の屋敷地が配置されていました。なお陣屋の西側、黒塚古墳に面した部分には石垣が確認できます。
(写真左上) 南側の東西道路
(写真右上) 西側の石垣
なお大手筋は陣屋西側の東西道路と想定され(写真右)、導線は西門から東進して陣屋西側の南北道路で右折⇒陣屋南側の東西道路で左折して、陣屋南東隅の設けられた表門に繋がっていたと思われます。(写真左下ー西門祉 写真右下ー西門祉に連続した石垣、石垣上には番所が構えられていたようです。) なお陣屋に繋がる虎口は陣屋東側の南北道路の延長上に それぞれ北門・南門が構えられていたようです。
(写真左上) 北門祉
(写真右上) 南門祉
(写真左) 大手筋に残る長屋門
専行院(写真左下)
陣屋の南西端に位置する柳本織田氏の菩提寺。宗派は浄土宗、本尊は阿弥陀如来。訪問時間が遅く、門が閉じていたため 確認していませんが、境内には柳本織田氏の墓碑があるようです。
黒塚古墳(写真右下)
陣屋の北東部に位置する古墳で「三角縁神獣鏡」が33枚 出土したことで有名。柳本陣屋はこの周濠を利用して築かれています。また中世には黒塚古墳上に楊本氏の柳本城が築かれていました。