富 木 城
石川県羽咋郡志賀町(旧富来町)富来八幡
立地・構造
 富木城は富来平野の中央東部、富来川右岸の独立小丘陵(比高15−20m)に築かれた丘城です。全体の規模は東西180m×南北100mほど、内部は耕作地に改変されているため、断言できませんが 複数の郭に区画されていたと推測されます。同地は羽咋から門前・輪島に繋がる「能登外浦往還」と内浦中島に繋がる幹道が分岐する交通の要衝に位置することから、交通の要地を扼する機能があったものと推測され、また もともと在地領主の館城として取り立てられたものと思われます。
 築城時期・築城主体ともに不明。南北朝期の貞和2(興国7 1346)年頃、前の越中国守護職 桃井刑部大輔直常が能登に侵攻して能登国守護職 吉見頼隆と対峙した際、桃井勢の中に富来俊行なる武士が参陣しており、この俊行なる人物が富木城に関連した人物と思われます。また永禄9(1566)年、クーデターで七尾城から追放された畠山修理大夫義綱が同11(1568)年、上杉氏の支援を受けて能登奪還に動いた際、畠山勢の中に富木胤盛が参陣しています。(この人物も富木城に関連した人物か?) 天正4(1576)年、能登に侵攻した上杉謙信は七尾城を包囲して猛攻を加えましたが、七尾城の守りは固く籠城戦は長期化します。このため謙信は七尾城の後方支援する支城群を先に攻略して、翌5(1577)年 関東出兵のため越後に帰陣しました。この際、富木城は上杉勢の攻撃を受けて落城し、上杉氏の家臣 藍浦長門が城将として入城しましたが、謙信が越後に退去後 七尾勢の攻撃を受けて奪還されたと伝えられます。また翌6(1578)年、七尾勢と対立した畠山旧臣の長九郎左衛門連龍が穴水城を奪還する際、富木城に入城したと伝えられます。同9(1581)年、七尾勢が七尾城を織田信長に明け渡して能登が織田領になると、富木城には織田の家臣 福富平左衛門行清が配されましたが、その後 前田利家が能登国主として入封した頃、廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
富木城 南側からの遠景
メモ
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形態
丘城
別名
富来城・岡野城
遺構
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場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成21(2009)年 6月24日
富木城は富来川の北岸、八幡地区背後の低丘陵に築かれた丘城です。(写真左上ー南側からの遠景 写真右上ー北東側からの遠景) 文化十二年 古城祉書上帳』には「城主 福富平左衛門と申伝。其地八幡村の領高野と云所にて、今畠と成れり。昔は堀跡もありしかど今は畠と成、其跡更になし。」と記され、1815(文化12)年にはすでに城郭遺構は消滅していたようです。当然、現在も遺構はなく、城址は耕作地となっているようです。なお城内には北西側に農道が敷設され、ここからアプローチできます。(写真左)
秋田の中世を歩く