仁叟寺
秋田県鹿角市(旧十和田町)十和田毛馬内
歴史・沿革
 仁叟寺は応永2(1395)年、千徳氏が閉伊郡千徳神田沢に天産賀舜を招いて創建した堂宇を初源とします。天正20(1592)年、千徳城主千徳孫三郎が朝鮮出兵中の留守をついて、南部氏の重臣桜庭阿波守直綱は千徳城を攻撃して留守役の千徳次郎善勝など一族・郎党を族滅しました。その後、閉伊郡千徳が桜庭氏の給地に宛がわれると直綱は千徳次郎善勝を供養するため堂宇を再建して善勝寺と名ずけ、桜庭氏の菩提寺としました。明暦3(1657)年、久保田佐竹藩との藩境論争が幕府裁定に持ち込まれると、南部藩は藩境警備を厳重にするため、直綱の孫兵助由之(光英)を柏崎城代に任命し、閉伊郡から毛馬内へ所替えとしました。善勝寺はこの際、閉伊郡から毛馬内に移され、名称も仁叟寺と改められました。なお山門は当麻館の搦手門と伝えられます。境内は城代桜庭氏のほか、檀家だった毛馬内給人の墓所にもなっています。   (場所はココです)
(写真左上) 山門
(写真右上) 鐘楼堂
(写真左) 本堂
(写真左下) 桜庭氏の墓所
桜庭氏は南部光行が陸奥に下向した際、これに同道したと伝えられる南部譜代。代々、南部氏の重臣を務めました。
(写真右下) 内藤家三代の墓
内藤湖南は柏崎城代桜庭氏の家臣内藤調一(十湾)の次男として毛馬内に生まれ、後に戦前を代表する東洋史学者となっています。境内には湖南の祖父天爵、父十湾、湖南(遺髪)が葬られています。