猿倉根井館
秋田県由利本荘市(旧鳥海町)鳥海町猿倉
立地・構造
 根井館は子吉川左岸に半島状に突き出した独立丘陵上(比高60m)に位置する平山城で、頂部を主郭に北・南側に郭を配置した連郭式の城郭です。大手は北西方向の丘陵基部と想定され、馬場・郭群・主郭・南郭と繋がっています。根井館の西・南・東側は急斜面の断崖で、さらに南側下には子吉川が自然の濠となっています。北西側の丘陵基部には沢が発達し、こちらも自然の濠となっていたと考えられます。規模は相当広く、居館を含む館城と推測されます。   (猿倉根井館図
歴史・沿革
 築城時期は不明。城主は信濃からこの地に入部した「海野・滋野氏系」の根井氏と伝わります。根井氏は「鳥海山の銅器識文」(鳥海山に十二神将を鋳造して奉納した時の願文銅板)によると元徳3(1331)年に滋野(根井)正家の名で奉納されており、鎌倉末期には由利郡に入部していたと推測され、鳥海山麓の猿倉・直根・百宅を領し、猿倉根井館を支配拠点としていたと考えられます。室町・戦国期を通じ根井氏は由利十二頭矢島根城館主大井氏と友好関係を保っていました。『奥羽永慶軍記』によると、天正19(1591)年に矢島大井満安が最上義光に山形城に呼ばれた留守中に、満安の弟与兵衛が謀反を起こし新荘館を占拠するという事件を起こしました。与兵衛の背後には大井氏と敵対関係にあった山根館主仁賀保氏がいたと思われますが、根井正重もこのクーデターに加担したと考えられます。満安はすぐに矢島に戻り事態の収拾を図りましたが、仁賀保氏を中心とする由利十二頭連合軍に攻められ、新荘館・荒倉館を捨て妻の実家である西馬音内城に逃れ、ここで自害しました。天正18(1590)年の豊臣秀吉の「小田原攻め」に、根井正重は他の由利十二頭とともに参陣し所領を安堵されています。この安堵状には本貫は猿倉村と記載されており、根井氏の本城は猿倉根井館と考えられます。大井氏滅亡期の根井氏は仁賀保氏に従ったようですが、「関ヶ原の戦」以後、正重は嫡子がなく死去し根井氏は改易となりました。
猿倉根井館  遠景
メモ
鳥海山山麓の在地土豪
根井氏の館城
形態
平山城
別名
・・・・・・・・・ 
遺構
郭・虎口・堀・井戸祉
場所
場所はココです
駐車場
第2発電所の案内杭の
あるところに路駐
訪城日
平成18(2006)年11月3日
平成19(2007)年5月11日
子吉川
根井館の南側を東流する子吉川は根井館の自然の濠だったようです。子吉川を遡ると根井氏が矢島大井氏と対立した頃に立て籠もった百宅根井館があります。
北西側縁部
第2発電所入り口付近です。ここから根井館(写真右方向)へは農道があります。ここには沢が深く発達し、比高10mほどの丘陵崖になっています。
根井館南西側
ほぼ垂直の急斜面で、斜面はそのまま子吉川に落ち込みます。
北側の郭(通称馬場)
北西側斜面を登るとここに出ます。往時は家臣屋敷・馬場があったと想定される広い敷地ですが、後年開墾され改変されているようです。
中直根方向
中直根には根井氏の「詰の城」中直根根井館や菩提寺正重寺があります。
主郭北側
主郭北側はなだらかな斜面に、低い段差で2段の郭が確認できます。
主郭虎口
主郭縁部は高さ2mの切岸で遮断され、北側の中央に石積(写真右)で補強された虎口があります。
主郭
東西150m×南北150m。北側は高さ2mの切岸で遮断され、東・西側は急峻な断崖、南側は南郭間の空堀で仕切られています。内部は相当に広く、西側が若干高くなっています。
空堀
主郭と南郭は幅15mの空堀で仕切られ、丘陵を完全に分断しています。空堀の内部には井戸祉らしき窪地(写真右)があります。
南郭(仮称)
根井館南端の郭で、物見で使用されたと考えられます。東西70m×南北30m。
猿倉地区
根井氏が本拠とした猿倉地区は鳥海山北東麓に位置します。