慈音寺館
秋田県由利本荘市(旧鳥海町)鳥海町下笹子
立地・構造  慈音寺館は笹子(じねご)盆地の南西部、笹子川の支流丁川(ひのとがわ)左岸の微高地に築かれた平城です。城の規模は東西90m×南北70mほど、南側は丁川を自然の濠とし、東・北・西側を堀と土塁で区画した単郭の方形館と推測されます。現在、館祉は慈音寺の境内となり、相当改変されていますが、西側の土塁・櫓台、東側の堀祉(排水路)・土塁痕が確認できます。また南側の側面は「重箱積」と呼ばれる高石積で構築され、慈音寺館の特徴となっています。
歴史・沿革  築城時期は不明。戦国末期の館主は矢島大井氏の家臣金子阿倍太郎と伝わっています。この地は矢島大井氏領の南東端に位置しており、笹子川(じねごがわ)沿いに院内に繋がる矢島街道を監視する機能があったと推測されます。文禄元(1592)年、根城館主大井満安は山根館主仁賀保氏率いる由利衆の攻撃を受けて、新荘館・荒倉館を追われ西馬音内城に逃れます。そして翌2(1593)年、満安は横手城主小野寺義道の圧迫を受けて自害しました。慶長5(1600)年、「関ヶ原の戦」が勃発すると金子阿倍太郎等大井氏遺臣40名は上杉氏と誼を結び、大井氏再興を掲げて満安の遺児鶴姫を擁して矢島城を急襲し乗っ取ります。しかし大井氏遺臣は仁賀保氏の攻撃を受けて矢島城を放棄し、赤館に立て籠もって仁賀保氏と対峙しました。しかし仁賀保氏の攻撃により赤館は陥落し、遺臣は四散したとされます。その後、慈音寺館は廃城となり、館祉に金子氏の菩提寺慈音寺が移築されました。
慈音寺館  南側側面の「重箱積」
メモ
矢島大井氏の被官
金子氏の居館
形態
平城(方形館)
別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台?・石積・堀祉
場所
場所はココです
駐車場
慈音寺の駐車場借用
訪城日
平成18(2006)年12月26日
平成24(2012)年6月25日
慈音寺館は上笹子(かみじねご)地区の中央部、丁川(ひのとかわ)左岸の微高地に築かれた平城で、丁川を自然の濠として構築されています。(写真左上ー南側からの遠景 写真右上ー西側からの近景) また背後の丘陵上には「詰の城」赤館が控えています。現在、館祉は文禄4(1595)年に創建された慈音寺の境内になっていますが、慈音寺がこの地に移されたのは慶長5(1600)年以降とされます。(写真左ー東側に開いた山門 写真左下ー慈音寺の境内) 境内の規模は東西70m×南北60mほど、東側の排水路は濠を踏襲したものなのか?。(写真右下) 側面は「重箱積」で補強され、縁部には土塁の痕跡が見られます。
(写真左上) 東側側面の「重箱積」
(写真右上) 東側縁部の土塁痕 
また境内西側の現在、庭園の築山になっている部分が西土塁と思われます。築山は広いところで下幅6−7m・高さ2−3mほど、北端が櫓台と伝わっています。(写真右・左下)
慈音寺館最大の見どころは南側側面に構築された「重箱積」と呼ばれる石積です。(写真右下) 規模は高さ2−2.5mほど、70mにわたって構築されています。ただしこの石積が金子氏時代の遺構かは不明。ま〜〜〜、近世以降に積まれたと考えるのが妥当なような。(矢島大井氏も石積の技術はもっていましたが・・・・・・・・・)
南側側面の「重箱積」 南側側面の「重箱積」