館山館
秋田県雄勝郡羽後町下仙道
立地・構造
 館山館は石沢川右岸の西側に張り出した丘陵に位置する山城で、南北に仙道谷を流れる石沢川を眺望できる要衝に築かれています。城縄張りは頂部を主郭にして、北・西側に張り出した尾根を削平して郭を配置した連郭式で、東側の尾根続き部分を二重堀切で分断して城域としています。主郭は20m×20mの方形で西側の帯郭がそのまま西側に延びて西郭(15m×40m)となり、先端部分は段郭で処理されています。主郭の北側には浅い堀切で区画された北郭(15m×40m)が配置され、北から東側縁部に土塁が築かれています。館山館の最大の特徴は北郭・主郭・西郭の東・西側の帯郭に普請された畝状竪堀・畝堀群で、小尾根が派生した北東側斜面、あるいは大手筋が想定される南西側斜面に集中的に普請されています。その数40条以上、畝状竪堀を防御手段として使用している小野寺氏の城砦の中でも量的には最大規模です。館山館は痩尾根を削平したため狭小で居住性は薄く、前述したとうり石沢川沿いの仙道谷を眺望する要衝であることから軍事的な色彩の濃い城砦と考えられます。
歴史・沿革
 築城時期は不明。『奥羽永慶軍記』に登場する小野寺氏被官の仙道左馬助が仙道谷を支配する勢力と推測されますが、館山館との関連は不明。天正10(1582)年の「荒沢の戦」以後、由利十二頭は檜山城主安東愛季と誼を通じ横手城主小野寺輝道と疎遠となります。このため輝道は由利十二頭から人質をとりますが、逆に人質の石沢氏の母が自害して、このことで小野寺輝道と由利十二頭が武力衝突を起こした「大沢山の戦」に発展しました。館山館は小野寺氏と由利十二頭の軍事緊張が極度に高まった天正10(1582)年頃に小野寺氏が由利十二頭の侵攻に備えて築城し、在地勢力の仙道氏が守備したと推測されます。
館山館 主郭東側の堀切
メモ
小野寺氏の番城
形態
山城
別名
・・・・・ 
遺構
郭・土塁・虎口・堀切・
竪堀・畝状竪堀群
場所
場所はココです
下仙道地区東側の丘陵
駐車場
路上駐車(近くに路側帯あり)
訪城日
平成20(2008)年4月16日
館山館遠景
北西側から館山館を見たところ。写真が小さくてわかりずらいですが、実際は削平された郭が確認できます。比高は60mと比較的低いですが、前面は急傾斜の断崖が石沢川に落ち込んでいます。
仙道谷
石沢川に沿った仙道谷は上流に進むと袋小路となり、峠を越えると由利郡に繋がっています。このため、中世の仙道谷は由利十二頭に対する城砦が等間隔で配置された軍事緊張地区と想定されます。
館山館へは県道34号の棚場地区から畑ノ沢方向へ進み、石沢川に架かる橋(写真左)を渡ります。渡ったらすぐ右折し農道を石沢川に沿って館山館方向に進みます。(写真中) で、館山館の北麓に到着したら直登し尾根(写真右)を目指します。10分弱で尾根に到着します。
堀切
しばらくなーんもない尾根を南側に進むと唐突に堀切(写真左)が現れます。城域の北側尾根を遮断した堀切で、幅7−8m・深さ5−6mほど、東側斜面に延ばした竪堀に隣接させて畝状竪堀(写真右)が敷設されています。
北郭
堀切からしばらくまた尾根をアップダウンさせて進むと北郭に到着します。写真ではわかりずらいですが、北端は高さ5mの切岸と浅い堀切で尾根(写真左上)と分断し、東・西側下には帯郭が配置され、東側の帯郭は「小野寺氏の定番」十数条の畝状竪堀群(写真左下)で切り刻まれています。北郭内部は15m×40mの細長い郭で、東側縁部には低いながら土塁が築かれています。(写真右) 畝状竪堀といい、土塁といい明らかに東側を意識していたのがわかります。
主郭
頂部に位置する郭で20m×20mほどの規模。二の郭とは浅めの堀切(写真左上)で遮断され、西側には幅7−8mの帯郭(写真右)が配置されています。虎口は南側下に配置された方4−5m四方の小郭(写真左下)と考えられます。
西郭
上記の主郭西側の帯郭はそのまま西側尾根を削平した西郭(写真左上)となります。規模は15m×40mと小規模ですが、先端部分には高さ2−3mの切岸で区画された5−6段の不規則な段郭群(写真右)が敷設されています。大手筋はこの南西麓からの城道が想定され、西側縁部には坂虎口(写真左下)らしきものが確認できます。城道はこの虎口を通り、前述の主郭虎口に繋がっていたのでしょう。
東側の堀切
主郭の東側は唯一尾根続きになっているため堀切で遮断されています。幅5−6m・主郭側の切岸は7−8mほどの薬研堀です。さらに尾根筋にはもう1条堀切が穿たれ二重堀になっています。
西側斜面の畝状竪堀
南郭の西側斜面にも畝状竪堀が十数条普請されています。ちょうどこの下には石沢川が流れ防御としては鉄壁です。残雪のため遺構がよくわかります。
東側の帯郭
西郭から北郭の東側斜面には主郭東側の堀切を挟んで幅7−8mの帯郭がズーっと敷設されています。この帯郭の北側は小尾根に繋がる緩斜面になっているため畝堀群で切り刻まれていますが、南側は竪堀1条(写真右)で遮断されています。細かいことですが、自然地形に合わせて防御手段を変えていたのでしょう。