黒 滝 城
新潟県西蒲原郡弥彦村麓一区
立地・構造
 黒滝城は蒲原平野の中央西部、弥彦丘陵の支尾根ピーク(通称要害山 標高246m 比高230m)に築かれた山城です。城の規模は東西300m×南北250mほど、城縄張りは山頂部に構築された主郭(天神郭・実城)を中心に、山頂部から派生した北東ー南東側稜線を階段状の郭に加工し、両尾根に挟まれた谷地部分にも郭を敷設した比較的単調な構造になっています。各郭の規模は主郭が東西30m×南
黒滝城概念図
北15m、主郭北側下の二の郭が東西30m×南北50m、主郭南側下の三の郭が東西10m×南北60m、桜井の郭が40m四方、大蓮寺郭が40m四方、吉傳寺郭が東西20m×南北25mほど。城の中枢部は主郭・二の郭・桜井の郭・三の郭からなり、比較的広い平場に加工されていますが、各郭と主郭とは10m以上の切岸で画され、主郭の独立性を担保しています。北東・南東側稜線の突端に構築された大蓮寺郭・吉傳寺郭は蒲原平野を一望できることから物見の郭と想定されます。東側斜面の谷地部分は垂直の急斜面になっていますが、北東ー南東側稜線間は帯状の細長い導線で繋がり、また部分的に平場が敷設されています。この谷地部分には水の手と思われる湧水地が2ヶ所見られます。大手筋は「根小屋」が想定される東麓の麓地区から城川沿いに西進し、要害山の北麓から急斜面を登るルートが想定され、桜井の郭と大蓮寺郭間の中間の郭には虎口が見られます。また搦手は主郭から剣ヶ峰砦に繋がる西側稜線と想定され、この間 稜線は6条の堀切で切られています。黒滝城は自然の要害地形を巧みに利用した城砦ですが、基本的には高低差を最大の防御ラインとした古い形態の城砦です。なお黒滝城の「根小屋」に想定される麓地区は北側の出来津川、南側の城川に挟まれた東西100m×南北350mの範囲に小規模な城下が形成されていたと推測され、往時 「根小屋」の東側は沼沢地だったと思われます。このため「根小屋」は北国街道の陸運と沼沢地の水運による物資・兵員の集積が行われた軍事上の要衝地だったと推測され、黒滝城はこの要衝地を監視・防衛する拠点として機能していたと思われます。なお黒滝城から西側に延びた稜線ピークには剣ヶ峰砦が築かれ、背後の稜線を防御しています。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には鎌倉末期、刈羽郡小国保から西蒲原に進出した小国氏が築いたとも。黒滝城の初見は『中条房資記録』(享徳三(1454)年四月の条)で、これによると時期は不明(応永年間 1394−1427年頃か?)ながら房資の父 寒資が越後国守護職 上杉房方に従って上洛した際、黒滝某小国某が謀反を起こしたことが発覚し 京から脱出したことが記されています。このことから黒滝城は南北朝期から室町初期頃、築城され小国氏の一族 黒滝氏が在城していたと推測されています。永正4(1507)年、越後国守護代 長尾為景が守護職 上杉房能を自害に追い込む「越後 永正の乱」が勃発すると、関東管領 上杉顕定(房能の兄)は越後に侵攻して府中を制圧、黒滝要害には八条修理・桃井讃岐守を城将として入城させました。しかし同7(1510)年、顕定は再起した為景勢の反撃を受けて「長森原の戦」で戦死し、同年 黒滝城には戦功のあった黒田和泉守秀忠が封じられました。天文5(1536)年、長尾晴景が守護代を継承し、同11(1542)年 為景が死去すると黒田秀忠は三条嶋ノ城主 長尾俊景、照田常陸介、金津伊豆守等とともに守護代 晴景に対して謀反を起こします。このため晴景は弟の景虎(後の上杉謙信)を栃尾城に派遣して蒲原郡・中郡の平定にあたらせました。同14(1545)年、景虎は黒滝城を攻略しましたが、黒田秀忠は守護職 上杉定実のとりなしで他国に出奔する条件で助命されました。しかし秀忠は翌15(1546)年、ふたたび黒滝城に立て籠もり抗戦の構えを見せたため、景虎は再度 黒滝城を攻略して黒田一族を族滅させました。その後、黒滝城には景虎の重臣 山岸出雲守光祐が城主として入城しました。天正6(1578)年、「御舘の乱」が勃発すると山岸光祐は喜平次景勝方に加担して軍功をあげ、乱は三郎景虎が鮫ヶ尾城で自害し終結しました。しかしその後も越後の内乱は続き、景虎方に加担した三条嶋ノ城主 神余親綱はなおも景勝方に反抗して執拗に黒滝城を攻撃しましたが、同8(1580)年 三条嶋ノ城は陥落しました。そして同9(1581)年、「御館の乱」後の恩賞を不満とした「新発田重家の乱」が勃発すると黒滝城は新発田勢に対する景勝方の拠点として機能しています。慶長3(1598)年、上杉景勝が会津転封になると山岸氏もこれに同道し、この際 黒滝城は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
黒滝城 天神郭背後の堀切(一の堀)
メモ
西蒲原を守備する上杉番城
 別名
黒滝要害
 形態
山城
遺構
郭(平場)・櫓台・土塁・虎口・水の手・堀
場所
場所はココです
黒滝城址森林公園
駐車場
登り口前の林道脇に駐車スペースあり
訪城日
平成19(2007)年9月25日
黒滝城は弥彦丘陵の一ピークに築かれた山城で、現在は山頂部が黒滝城址森林公園になっています。(写真左上) 城へは東麓の麓地区に案内杭が設置され(写真右上)、道なりに進むと寺泊野積に繋がる林道に入ります。でっ、せまい林道をしばらく進むと進行方向左側に大手口に案内杭がありますが(写真左)、主郭の背後まで林道が敷設されており、そちらを目指します。でっ、またしばらく進むと林道は公園方向に分岐し(写真左下)、搦手の登り口に辿り着きます。(写真右下) 登り口には説明板が設置され、主郭との比高差は30mほど、ケッコウ楽に登ることができます。
主郭を目指して最初に現れるのが巨大な堀切です。(写真左上・右上) 規模は幅15m・深さ10m以上、思わず「エッと」唸るような巨大なモノ。ちなみに主郭から3条目の堀切にあたり、現地表示では「三の堀」になっています。(ちなみに登り口にある林道の切り通しが「四の堀」なのでしょう) でっ、切岸を登ると切岸上には堀切に面して小規模な削平地が設けられています。(写真右) ここから主郭までは約100mほどの痩尾根で繋がり(写真左下)、途中には小規模な堀切(二の堀か?)が見られます。(写真右下)
一の堀(写真左・右上)
主郭の西側稜線を断ち切った堀切。正確には巨大な壁と言ったほうが正しいかもしれません。堀自他は浅いものの主郭側の切岸は15m以上あります。
主郭(天神郭 写真左下)
規模は東西30m×南北15mほど、周囲は10m以上の切岸で処理され、西側縁部には高さ1.5−2mの櫓台?が構えられています。(写真右下)
二の郭(写真左上)
桜広場と現地表示される平場で、主郭の北側下に位置します。規模は東西30m×南北50mほど、主郭とは高さ10mの切岸で仕切られ(写真右上)、北側稜線は3−4段の段郭群に加工されています。(写真右) 管理人はこの段郭群を経て桜井の郭へ向いました。
桜井の郭(写真左下)
二の郭の東側下に位置し、規模は40m四方ほど。内部には黒滝城の水の手のひとつ桜井戸があります。(写真右下 現在は若干の窪みが確認できるのみ) 桜井戸には落城の際、宝物を埋めたとする伝説もあるようですが ・・・・・・・・。
(写真左上)
黒滝城の特徴は急傾斜の地勢を利用して高い切岸を確保していることでしょう。写真は桜井の郭から主郭・二の郭方向を見上げたところ。
桜井の郭から大蓮寺郭に繋がる北東側稜線は数段の段郭群で処理され(写真右上)、中段には北東麓の大手口に繋がる虎口が設けられています。(写真左)
大蓮寺郭(写真左下・右下)
主郭から北東方向に突き出した稜線突端に位置する郭。規模は40m四方ほど、蒲原平野を一望できることから物見郭と思われます。また大手導線を見下ろす位置にもあるようです。
主郭の東側斜面は谷地が入り込んだ沢状地形になっていて、2ヶ所から湧水し、黒滝城の重要な水の手だったと思われます。(写真左上ー桜清水 写真右上ー鷲沢の井戸) このうち鷲沢の井戸には水の手防御のためと思われる段郭が敷設されています。(写真右)
吉傳寺郭(写真左下)
南東側尾根の先端に位置し、大蓮寺郭と同様、物見郭と推測されます。規模は東西20m×南北25mほど、分水町の吉田寺(吉傳寺)の寺伝によると天文21(1552)年に移築されたと記されています。
吉傳寺平(写真左上)
吉傳寺郭の上部に位置し、東・西2段の段郭からなります。規模は上段が東西30m×南北10−15m、下段が東西40m×南北20mほど。上段の郭の南縁には高さ1−1.5mの土塁が築かれています。(写真右上)
三の郭(写真左・左下)
主郭の南側下に位置し、規模は東西10m×南北60mほど。南東側に延びた郭群の中枢部、吉傳寺郭から三の郭に繋がる郭群は切岸のみを防御手段とした古いタイプの縄張になっています。
(写真右下) 蒲原平野を望む