小鼓城
秋田県横手市(旧十文字町)十文字町植田
立地・構造
 小鼓城は横手盆地の中央南部、皆瀬川北岸の微高地に築かれた平城で、濠で囲郭された方形館と想定されます。現在、城址は植田地区に包括され、宅地化・開墾等により城域は不明瞭になっていて、規模・構造等は不明。城の東縁部には南北街道に沿った街村が発達し、小さいながら城下を形成していたと推測されます。
歴史・沿革
 築城時期・築城主体ともに不明。『享保郡邑記』には「村の西に古館あり、昔城主大石ノ与九郎住居スと云」と記され、また菅江真澄の『雪の出羽路』、『植田邑熊野権現ノ宮』の項には「大石駿河守の男同苗与九郎藤原定景」と記され、城主は大石氏とされます。鎌倉初期、平鹿郡の郡地頭職は鎌倉御家人松葉(平賀)氏が任ぜられ、一族か被官が代官支配したとされます。延文四(1359)年四月廿日、足利義詮が平賀出羽前司貞宗法印宛に出した袖判下文には平鹿郡の惣領職が与えられていることから、平賀氏の庶流が土着した勢力が大石氏の初源と推測され、室町初期には同じ皆瀬川北岸の在地領主新田目氏・河熊氏・今泉氏等とともに、平鹿郡に勢力を拡大する稲庭城主小野寺氏の支配下に組み込まれたと思われます。『奥羽永慶軍記』(あまり使用したくないのですが・・・・・・・・)によると植田与九郎(大石定景)は天正10(1582)年の「大沢山合戦」、同12(1584)年の「有屋峠の戦」、同15(1587)の「唐松野合戦」に平鹿衆として出陣しています。 文禄4(1594)年、山形城主最上義光は楯岡城主楯岡満茂を指揮官として雄勝郡に侵攻し、湯沢城岩崎城を陥落させ雄勝郡中央部を制圧することに成功しました。翌5(1595)年、湯沢城奪還を目指す横手城主小野寺義道は雄勝へ出陣しましたが、「大島原の戦」で最上軍に頑強に抵抗され横手への退却を余儀なくされました。この好機に最上軍は平鹿郡への進軍を開始し、小鼓城は新田目今泉・河熊・南部倉の4城とともに最上軍に制圧され、城主植田与九郎は湯沢城燕橋で討死したと伝えられます。慶長3(1598)年、義道は再度 雄勝に出陣し新田目・植田・河熊・南部倉4城の奪回に成功しました。その後、同5(1600)年の「関ヶ原の戦」まで同地域は小野寺・最上の軍事緊張が続き、戦後 小野寺氏は改易となり、この際 小鼓城は廃城になったと思われます。
小鼓城  「小鼓城・古四王神社由来記」の石碑
メモ
在地領主 大石氏の居館
形態
平城(方形館?)
別名
 植田城
遺構
・・・・・・・・・
場所
場所はココです
駐車場
植田中丁会館駐車場借用
訪城日
平成20(2008)年5月16日
小鼓城は現在の植田地区に存在していたとされれますが、遺構は消滅し、城域・規模ともに不明。(写真左上ー推定地) 推定地と思われる場所に「小鼓城・古四王神社由来記の石碑」が建てられています。(写真右上)
菅江真澄の『雪の出羽路』には「植田に表町、裏町ありて、いにしへの城下さま也・・・・・・・
、みな東西の町にして南北に往復せり。又表町より裡町へ通ふ小路あり・・・・・・・・・
」と記され、小さいながら城下から変容した街村があったとされます。写真左は南北に走る表町で小鼓城の東縁にあたるようです。
古四王神社(写真右)
永禄元(1558)年、大石与九郎が城内の辰巳(南東)の隅に祀ったとされる大石氏の守護神です。現在地に移されたのは江戸期とされます。